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自治体職員の読書ノート

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【1195冊目】カール・シュミット『政治的なものの概念』

国家・市場・労働

政治的なものの概念

政治的なものの概念

先日読んだ『逆説の政治哲学』で引用されていた思想家のなかで一番気になっていたのが、このカール・シュミット。なにしろナチズムの政治理論を支えたとされる「いわくつき」の政治学者である。それだけに、うんと身構えながら読みはじめたが、気がつくと強烈な理論展開に引きずり込まれていた。う〜ん、こりゃすごい。

この本を読んでいて気味が悪いのは、シュミットが批判の対象としているワイマール体制下のドイツと、日本の「戦後民主主義」のありようが、やたらに似ていること。当時のドイツは世界規模の大戦で敗北し、もっとも民主的といわれる体制のもとに置かれながら(あるいはそれゆえに)、軍備という牙を抜かれ、多額の賠償金が国家財政を圧迫し、政治は行き詰まり、人々は鬱屈を抱え、ドイツという国自体が出口を見失っていた。

そんな中で刊行された本書が訴えたのは「国家の復権」だった。シュミットは、国家の存在を軽視し、個人の自由を重視し、平和と経済的発展を訴える当時の自由主義的風潮に対し、痛烈なノーを突きつけた。

「いかなる一貫した個人主義にも、政治的なものの否定〔という要素〕が含まれており、これは、ありとあらゆる政治権力・国家形態に対する不信の政治的実践へと連なりはしても、決して、独自の積極的な国家理論・政治理論へいきつくものではない」(p.88)

では、政治という概念をどう考えるべきか。この厄介な問いに対して、本書でシュミットが提示した有名な答えが、「友−敵理論」である。「友」と「敵」が区別され、「友」が結束して「敵」にあたるという構図こそが、政治や国家の本質にあるというのだ。そして、その典型的な行為が「戦争」。シュミットは、ムッソリーニのように戦争を希求こそしなかったが、戦争を国家や政治と不可分の、本質的な要素として位置づけた。

国家は、戦争の名の下に人々の生殺与奪の権を有するのであり、したがって他の共同体や団体より上位にある、とシュミットは考える。そして、戦争の決定を含む強力な決定権が、そこには備わっていなければならない。

それこそが「主権」であり、交戦権をもつ国家のみがその主体となることができるのである(本当は、シュミットの議論はさらに戦争などの例外的事態における「独裁」の必要性にも及んでいくのだが、本書ではそこまでは扱われていない)。

こうした独特の政治思想は、すでに書いたとおり、当時の自由主義や民主主義への批判から生まれてきたのだが、それが結果的にナチズムファシズムに向かう思想を準備してしまったところに、シュミットの恐ろしさがあるように思われる。

その後、様々な方面から、ナチズムファシズムへの反省にからめてシュミット批判が行われてはいるが、シュミットが批判した自由主義や民主主義の「問題点」自体が克服されていない(むしろ、克服することが原理的にできないと考えるべきかもしれない)以上、根本的なところで、現代はまだシュミットを乗り越えることができていないように思うのだ。

冒頭にも書いたが、そのことは特に日本にあてはまる。本書を読んでいると、これは今の日本のことを言っているのではないか、と感じられる個所にしょっちゅうぶちあたる。以前、佐藤優氏が、日本はこれからファシズムの危機を迎えるのではないかと指摘されていたが、確かに、ナチズムはともかく、いわゆるファシズムを生む土壌は、今の日本にも用意されているように思われる。

その危機を回避するためには、シュミットを単に「危険な思想家」として排除するばかりでは、ちょっとマズイように思う。特に戦後の日米関係やアジア戦略については、たとえば以下のシュミットの指摘が、その本質を言い当てているように思えてならない。この指摘を乗り越えるための論理構築に、今の日本では、いったい誰が取り組んでいるのだろうか。

「国民が政治的なものの領域内に存在するかぎりは、(略)友・敵の区別を国民自身が定めなければならない。この点に、国民が、政治的なものとして存在することの本質がある。この区別をする能力ないしは意志を欠くとき、国民は政治的な存在であることをやめてしまう。みずからの敵がだれなのか、だれに対して自分は戦ってよいのかについて、もしも他者の指示を受けるというのであれば、それはもはや、政治的に自由な国民ではなく、他の政治体制に編入され従属させられているのである」(p.55)

「もしも、一国民が、政治的生存の労苦と危険を恐れるなら、そのときまさに、この労苦を肩代わりしてくれる他の国民が現われるであろう。後者は、前者の『外敵に対する保護』を引き受け、それとともに政治的支配をも引き受ける。このばあいには、保護と服従という永遠の連関によって、保護者が敵を定めることになるのである」(p.59)

「無防備の国民には友しか存在しない、と考えるのは、馬鹿げたことであろうし、無抵抗ということによって敵が心を動かされるかもしれないと考えるのは、ずさんきわまる胸算用であろう。(略)一国民が、政治的なものの領域に踏みとどまる力ないしは意志を失うことによって、政治的なものが、この世から消え失せるわけではない。ただ、いくじのない一国民が消え失せるだけにすぎないのである」(p.60〜61)

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