自治体職員の読書ノート

自治体で働くソーシャルワーカーが、読んだ本を紹介します。

noteで新しい企画をはじめました

2500冊目という節目を迎えて、新たな企画をスタートしました。

noteのほうに、これまで読んだ本をベースに「おすすめブックリスト」を発表していきたいと思います。とりあえず4つアップしましたので、気になる方は覗いてみてください。そして、もっといい本、おススメ本があるよ!という方は、ぜひ紹介してくださいね。(リストは随時更新していく予定です) 

 

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【2500冊目】オイゲン・ヘリゲル『弓と禅』

 

弓と禅

弓と禅

 

 

 

弓の名人、阿波研造のもとで5年にわたり弓道を学んだドイツ人著者が、その体験を記した一冊。西洋の論理や合理にどっぷり漬かった著者(実は著者のヘリゲル氏、新カント学派を主に教える、いわばバリバリの西洋哲学のプロである)が、対極ともいえる弓道の教えをどう感じ、何を考え、いかに変わったか、そのプロセスが赤裸々に記されている。

著者が驚くのは、身体的な動きの結果であるはずの弓道が、実は精神のあり方を追求するものであるということだ。いや、こう分けて考えてしまうこと自体、実はきわめて西洋的な発想だ。精神と身体はつながっている。自分と弓が、矢と的が、それらすべてをひっくるめた世界がつながっているように。

 

弓道とは、弓を引いたその弧の内側に、それら世界をすべて呑み込まなければならない。

中でも衝撃的なのは、自分が射るのではない、と師が告げるくだり。では「誰が」射るのですか、と問う著者に、師はこう言うのだ。 「”それ”が射るのです」

もちろん著者は、さらに問う。”それ”とは何ですか、と。師はこう応じる。 「ひとたびこれがお分りになった暁には、あなたはもはや私を必要としません」

この「体験をもって伝える」というメソッドが、もうひとつの本書の眼目だ。マニュアルやロジックによる現代スポーツの教授法とは遠く離れた、日本古来の方法がここにある。弓道だけではない。茶道も、墨画も、職人の技術もそうであった。だから芸道の世界でも「教わるのではなく、盗め」のような言い方がなされるのだろう。

それを古臭いとか、非効率的といって退けてきたのが現代の日本だ。その結果、確かにスポーツの水準は上がり、技術はマニュアル化されて広く伝わり、誰もが同じサービスを提供できるようになった。だが、その裏側で何が失われてきたのかが、本書を読むとよくわかる。それこそが、このドイツ人哲学者が5年をかけて体験してきたことなのである。いったい学びとは何なのか、深く考えさせられる一冊だ。

【2499冊目】福島香織『ウイグル人に何が起きているのか』

 

 

ナチス・ドイツユダヤ人大量虐殺が明らかになったのは、戦争が終わってからだった。もし戦時中からアウシュヴィッツの存在が知られていたら、当時の国際社会はどのように反応しただろうか。

仮定の話、ではない。それに匹敵するすさまじい民族浄化が、今まさに行われているからだ。舞台は中国、新疆ウイグル自治区。そこで遂行されているのは、単なる「民族弾圧」どころではない。本書の記述が本当であれば、中国はウイグルという民族、文化、伝統のすべてを消滅させようとしているとしか思えない。

無数の監視カメラに警察官。イスラム教徒であるウイグル人に、酒を飲ませ、豚肉を食べさせ、イスラム風の服も家屋も変えさせる。それも「笑顔で、自ら進んで」行わせるのである。もし嫌がるそぶりを見せたらどうなるか? 「再教育施設」に直行だ。

再教育施設と言えば聞こえは良いが、これがまさに強制収容所そのもの。テロリストと決めつけられ、激しい暴力を受け、寒い夜に水を掛けられたまま放置され、両手を吊るされて汚水タンクに首まで漬けられるといった拷問を受ける。

拷問をクリアしても、待っているのは「再教育」の日々だ。鎖でつながれ、朝5時から夜12時まで、再教育という名の洗脳を受け続ける。革命歌を1時間半も歌わされ、「私の人生があるのは党のおかげ」「ウイグル人に生まれてすみません」と繰り返し言わされる。決められたスローガンを暗唱できないと24時間にわたり真っ暗な独房に入れられたり、鉄の拷問椅子に縛り付けられる。毎週4~5人が部屋から呼び出され、そのまま二度と戻らない。怖いのは、入所時に血液と臓器適合の検査を受けさせられることだ。明確な証拠はないが、ウイグル人の臓器が売買の対象になっているという噂は絶えない。

こんな「再教育施設」に、国連の人種差別撤廃委員会によれば、最大200万人規模のムスリムが収容されているという。ウイグル人だけでも、その人数は100万人ともいわれている。中国に暮らすウイグル人、約1100万人の1割である。外国にいるウイグル人だって無事ではいられない。帰国命令が出され、滞在先の国によっては強制送還させられる。パスポートの更新のため本国に戻り、そのまま再教育施設に送り込まれる人もいるという。

本書は、日本でなかなか実態が伝えられることの少ない「現代のアウシュヴィッツ」のありようを告発する一冊だ。それも、ウイグル人漢人の確執の歴史を踏まえ、911によるイスラム教徒への逆風の影響などにも触れつつ、最近になって急激に「過激化」した背景にも言及しており、ややアンチ中国臭が強いきらいはあるが、非常に充実した内容となっている。

数年前に「ウイグルの母」と呼ばれるラビア・カーディルの自伝を読み、そこで書かれているウイグル人迫害のすさまじさに驚いたことがある。しかし本書を読む限り、残酷さはそのままに、中国の対ウイグル政策はよりシステマチックかつ徹底した民族浄化に突き進んでいるようだ。今の国際社会に、果たしてこの暴挙が止められるのか。世界第二位の経済大国によって、リアルタイムで行われているナチス・ドイツ級の虐殺に対して、世界は本当になすすべがないのだろうか。

 

 ラビア・カーディルの自伝はコチラ。

 

 

こちらもおすすめ。ぜひ一読を。 

 

【2498冊目】ハンス・ロスリング、オーラ・ロスリング、アンナ・ロスリング・ロンランド『FACTFULNESS』

 

 

今や「フェイクニュース」なんて言葉が登場し、何が事実で何がフェイクなのか、すっかりわからなくなってしまった。だが、そこまで「わかりやすい」インチキ情報は、むしろ少ない。それより深刻な問題は、私たちが接する情報自体が正しくても、受け手の私たち自身がきちんと事実を把握し、正しく世界のありようを理解できていないという点なのだ。著者によればその原因は、私たち人間自身がもっている10の「本能」なのだという。

「分断本能」は、「富裕層」「貧困層」、「先進国」「途上国」といった二極に世界が分断されていると認識する。だが実際には、1日の所得が2ドル以下の貧困層と、1日の所得が32ドル以上の豊かな人々は、それぞれ世界全体で10億人ずつ。一方、その中間をなす層はなんと50億人にのぼるという。

「ネガティブ本能」は「世界はどんどん悪くなっている」と思い込む。「直線本能」は変化の予測を「直線のグラフ」で想定し、「恐怖本能」は、恐ろしいものばかりに目が行ってしまい、「過大視本能」はひとつの数値だけを過大視してとらえてしまう。

他にも「パターン化本能」「宿命本能」「単純化本能」「犯人捜し本能」「焦り本能」が本書では挙げられているが、いずれにせよ必要なのは、私たち自身がそうした「本能」を持っていると自覚することだ。そして、あたかもワクチンを打つように、そうした「本能」に囚われないための方法論を身につけることである。

例えば「中国やインドなどの新興国二酸化炭素の排出量を増やしている」という指摘に対しては「ひとりあたりの排出量はどうか」と考えることができるだろうし、「男尊女卑はアジアの伝統」という見方に対しても「60年前の欧米もそうだった。単なる古い価値観にすぎない」と反論できるだろう。飛行機事故を怖がる向きに対しては、次の統計を示してはどうか。

「2016年に目的地に到着した飛行機は、世界中で約4000万機。そのうち死亡事故を起こしたのは10機。飛行機って、そんなに危険ですか?」

ファクトフルネスとはこういうことだ。過度の悲観も、過度の不安も禁物だが、過度の楽観もまた行き過ぎとなる。大事なのはまさに「正しく怖がる」ことなのである。本書はそのための処方箋を示し、世界の見え方を変えようとする一冊なのだ。新型ウイルスをめぐって情報や認識が混乱している今こそ、しっかり向き合いたい。

 

【2497冊目】沢木耕太郎『テロルの決算』

 

新装版 テロルの決算 (文春文庫)

新装版 テロルの決算 (文春文庫)

 

 

 

昭和35年10月12日、社会党委員長浅沼稲次郎が、日比谷公会堂演壇上で刺殺された。加害者は当時17歳の山口二矢。本書はこの衝撃的な事件に至る流れを、浅沼、山口の両面から追った一冊だ。

とはいえ、そもそも現代ではこの事件のことさえ知らない人も多いのではないか。だいたい「二矢」を「おとや」と読める人も少ないだろう。だが、ネトウヨという右翼とは名ばかりのくだらない連中が幅を利かせ、社会全体が大きく右傾化しつつつあり、そして言論や行動の短絡化が著しい今こそ、あの事件は思い出されるべきだし、本書は読まれるべきと思う。

61歳の浅沼と17歳の山口を比較するのはアンフェアかもしれないが、それにしても、浅沼の人間としての奥行きや複雑さに比べると、どうしても山口は、行動も思想も人間も、いかにも薄っぺらで単純だ。その単純さは、右と左の違いはあれど、学生運動に身を投じた当時の学生とあまり変わらない。その意味でこの事件は、右翼と左翼の対立構造というよりも、大人と青年の対立構造であり、幕末の志士たちの行動や、あるいは戦前のたとえば二二六事件あたりとも対比できるのかもしれない。