自治体職員の読書ノート

読むために書くのか、書くために読むのか。

【2284冊目】スタニスワフ・レム『ソラリス』

 

 

ハヤカワ文庫の100冊」というブックレットがある。ハヤカワ文庫シリーズ(SF、JA、NV、ミステリ、クリスティー文庫、epi、ノンフィクション、FT)からオールタイム・ベスト級の100冊をセレクションしたものだ。中には納得のいかない本も入っているが、全体としてはなかなかクオリティの高いセレクトになっていると思う。

 

で、ざっと数えたら既読が25冊、未読が75冊という状態だったので、未読のやつをこの機会に読んでみようかと思ったワケである。完全制覇まで行くかどうかわからないが、たまにはこういうセレクションを頼りに本を読むのも良いものだ。

というわけで筆頭に登場するのがこの一冊、レムの『ソラリス』である。ずいぶん前に挫折したきりだったので、なんとなく手が出しづらくなっていたのだが、少し前の「100分で名著」で取り上げられていたのと、今回のセレクションのトップバッターだったので、この機会に再チャレンジしてみようと思った次第。

惑星を覆っている海そのものが一つの意思をもっている生命(といってよいものか。むしろ「超生命」?)であるという発想にまず驚く。だいたいこの手の小説に出てくる地球外生命のイメージというと、人間に限りなく似たヒューマノイドタイプか、類似したところで虫や鳥などの動物(タコ型火星人のレベル)程度であって、人間が想像する「他者」の限界が窺えるというものだ。映画『メッセージ』の異星人も、ディテールは見事だったが、やはりイカタコ系の延長であった。

地球外生命という「他者」との出会いを描くSFとしては、だから本書の発想はものすごいのだが、ここまでは実は序の口。驚くべきはその先、出会う対象としての他者「ソラリス」との関わりが、なんと死んだはずの自分のかつての恋人との再会という形で「反転」するところ。こんなこと、レム以前に、いったい誰が考えついただろうか。

だから、物語は主人公ケルヴィンと謎の「元恋人ハリー」とのラブロマンスのような見かけで進んでいくのだが、実はそれ自体がソラリスという圧倒的他者との関わりであるという入れ子構造になっている。思い出とか記憶といった、いわば人間存在のもっとも柔らかい部分を読み取ってくるのがソラリスだとすれば、ソラリスと関わろうとする者は、外部の他者と関わろうとすればするほど、実はそのベクトルが自分の内側に反転してくるのである。

最初にも書いた通り、人はどうしても自分の想像の範囲内で他者を想定してしまう。だが、本当に他者と関わるということは、想像を超えることそのものを想定しておくことなのかもしれない。本書は、そのことをソラリスという巨大な他者を通じて表現した小説なのだろう。

 

 

【2283冊目】ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス』

 

ホモ・デウス 上: テクノロジーとサピエンスの未来

ホモ・デウス 上: テクノロジーとサピエンスの未来

 

 

 

ホモ・デウス 下: テクノロジーとサピエンスの未来

ホモ・デウス 下: テクノロジーとサピエンスの未来

 

 

イスラエルの鬼才ユヴァル・ノア・ハラリが『サピエンス全史』に続き、とんでもない本を書いた。『サピエンス全史』は名著だが、この『ホモ・デウス』は、とんでもない奇書か、人類の未来の予言書かのどちらかだろう。

古代から中世にかけての時代が「神中心」であったとすれば、近代から現代にかけては「人間中心」、著者の言葉でいえば人間至上主義の時代であった。人間の理性、感覚、感情がもっとも重要なものであり、個人の才能から花開いた芸術や知性が評価された。人々は自らの意思に基づき投票し、選ばれた政治家が政策を決定した。自由主義も民主主義も、こうした人間至上主義が基盤になっている。

ところが今や、とんでもないことが進行しつつある。膨大なデータに基づき、巨大なアルゴリズムが人間の意思決定を先取りするようになっているのだ。すでにわれわれは、目的地までの道順、今日の夕食のレシピ、今度のデートで観る映画などを、意識しているかはともかくとして、グーグルのアルゴリズムに沿って選んでいる。そして、これからは、投票すべき候補者や結婚すべき相手などの事柄も、自分で決めるよりAIに決めてもらう時代が来るかもしれない。少なくともそのほうが、自分にとって妥当な決定ができるようになるからだ。

とんでもない、と思われるかもしれない。人間は意志決定をコンピューターに委ねることはない、人間には自由意志というものがあり、感情というものがあるのだから、と。だが、そもそも人間はそれほど自由な存在なのだろうか。著者は、人間を含めた生命はアルゴリズムにすぎず、感情もまた、その一部にすぎないという。以下の引用はヒヒに関する説明だが、人間にも同じことが言える。

「じつは、ヒヒの体全体が計算機なのだ。私たちが感覚や情動と呼ぶものは、じつはアルゴリズムにほかならない。ヒヒは空腹を感じ、ライオンを目にすると恐れと震えを感じ、バナナを見ると唾が湧いてくるのを感じる。ヒヒは一瞬のうちに感覚や情動や欲望がどっと湧き起こるのを経験するが、これこそヒヒの計算の過程以外の何ものでもない」(上巻p.110)

したがって、人間のもつアルゴリズムより優秀なアルゴリズムが出現した場合、人間至上主義の前提はもろくも崩れ去る。しかもそれは、グーグルやフェイスブックなどの膨大なデータを基にしている。例えば、あなたがある一つの決定を行うとなると、グーグルは自分が送り、受け取ったすべてのメール、「いいね」を押したすべてのフェイスブックの記事、検索したすべてのワード等の膨大なデータを参照し、複数の選択肢から最善の決定を導き出すのである。

このように、データに基づく人工知能の高度な判断に人間が従属することを、著者は「データ至上主義」と呼ぶ。人間は自由を奪われ、その代わりに「適切な決定」と「快適な生活」を手に入れる。著者はこのことを「人間は力と引き替えに意味を放棄することに同意する」(下巻p.7)契約書にサインする、と表現する。別の箇所では「私たちは何百年にもわたって、能力を強化されたチンパンジーだった。だが将来は、特大のアリになるかもしれない」(下巻p.204)とも言うのである。

これは科学技術がもたらす必然なのか、本当にこれに抗する術はないのか。本書は、そんな焦りに満ちた問いかけをぶつけたくなる一冊だ。だが一方で、民主主義がナチスを生み、トランプを生んだという現実を考えると、人工知能が政治家を選び、政治家もまた人工知能に基づいて政策決定を行う、そんな社会も、それはそれで魅力的かもしれない、と思ってしまう自分がいる。ひょっとするとこれは、プラトンの提唱した哲人王に近い存在を、初めて人類が生み出すということなのかもしれないではないか?

 

【2282冊目】車谷長吉『車谷長吉の人生相談 人生の救い』

 

車谷長吉の人生相談 人生の救い (朝日文庫)

車谷長吉の人生相談 人生の救い (朝日文庫)

 

 

朝日新聞別刷の人生相談コーナー「悩みのるつぼ」での相談内容を書籍化した一冊。掲載当時から話題になっていた、というか物議を醸していたが、私は、そもそもこの人に「人生相談」コーナーを任せた朝日新聞の度量に驚いた。

例えば「教え子の女子生徒が恋しい」という相談には「女生徒と出来てしまえばいい、自分の生が破綻したときはじめて人間とは何かが見えてくる」。「人の不幸を望んでしまう自分が嫌」という相談には「あなたには一切の救いがない」。「浮気を繰り返す夫にどう接すればよいか」との相談には「一日も早く、夫またはあなたが死ぬしか、手段はありません」。

まさに車谷長吉にしかできない回答、とも思えるが、実はこの回答の仕方、仏教がベースになっている。それも仏教の根本原理である「一切皆苦」が、すべての回答の底に横たわっているのだ。人生は苦である。すべては苦しみである。それこそが仏教の原点であり、ある意味では、人生相談の原点でもあるのだ。

しかもそのことを、単に教理、原理として言っているのではないところが、この人の凄みである。それは車谷長吉自身の苦しみに満ちた人生経験、苦悩と闇の深さから発しているのだ。万城目学が本書の解説で「悩み事という精神の暗き淵から発せられた訴えに対し、さらなる奈落から回答する」と書いているが、まさにそのとおり。だからこそ、その回答を読んでいて、驚くと同時に、どこか深く納得している自分がいる。

大げさに言えば、ブッダが登場した時のインパクトとは、おそらくこういうものだったのではないか。悩みや苦しみを取り除くのではなく、その根っこの部分にまで降りていって、もっと深い人生の本質のところから答えを発する。その意味で、一見型破りには見えるけれども、これこそがホンモノの「人生相談」なのだと思う。

【2281冊目】ピエール・ルメートル『死のドレスを花婿に』

 

死のドレスを花婿に (文春文庫)

死のドレスを花婿に (文春文庫)

 

 

こないだに引き続きルメートル。デビュー2作目、邦訳されている中では最初に書かれた作品だが、すでに「ルメートル節」らしきものが立ち上がっているのが興味深い。

自分が何をしたか覚えてないという経験はあるだろうか。酔っぱらって記憶が飛んでいたりすることはあるが、日常的に身に覚えのない出来事が次々に起こるとなると、こんなに恐ろしいことはない。

本書の主人公ソフィーは、まさにそういうことの繰り返しだった。時折訪れるわずかなフラッシュバック。だがいくらなんでも、気づいたらベビーシッター先の男の子が死んでいて、首に自分のスニーカーの紐が巻き付いているとなると尋常ではない。ソフィーの必死の逃避行が始まるが、名前を変え、素性も隠して生活する中で出会った一人の男に、ソフィーはプロポーズすることになる……

これが第1章。だが、第2章に入るとすぐに、これまで読んだ第1章が全然別の見え方で見えてくる。謎だらけだったソフィーの行動に、思いもかけない方向から光が当たり、読者は腰を抜かすほど驚くことになる。

いやいや、これ以上は書けない。まあ、よくぞこんな設定を思い付き、小説の形に仕上げたものだと、まずそのことに感心する。先日の『悲しみのイレーヌ』のひっくり返し方も見事だったが、本書もそれに匹敵する鮮やかさ。ただし、例によって、読んでいて気分のよい小説ではない。最後はいちおうハッピーエンドめいた形で終わるが、それでも失われた時間、損なわれた人生が、戻ってくるというわけではない。

にもかかわらず、クライマックスに向けて予想外の方向に突進していく第3章、第4章は、そこまでの「溜め」を一挙に爆発させるようで、読んでいてホントに本を置くことができなくなる。後半は一気読み必至。しっかり時間を確保して取り掛かることをおススメする。

【2280冊目】ラジ・パデル『肥満と飢餓』

 

肥満と飢餓――世界フード・ビジネスの不幸のシステム

肥満と飢餓――世界フード・ビジネスの不幸のシステム

 

 

本書はかなりヤバい本である。見たくない、見ないことにしていたリアルを容赦なく突きつけられる。だが、これが世界の現実なのだ。メディアにもフードシステムの莫大な広告料が流れ込むため、正面からの批判はなかなかできない(最近の日本のテレビでは、むしろあからさまな「応援番組」さえ目立つ)。だが、これは決して放置しておいてよい問題ではないと思う。何しろ私たちのカラダは、私たちが食べているものでできているのだから。

10億人が飢餓に苦しむ一方で、10億人が肥満に悩んでいる。なぜそんなことになったのか。なぜ多くの農民が破産や自殺に追い込まれ、なぜ有害な食品や高カロリー食品がスーパーに並び、なぜそのことをほとんどの学者やメディアが告発しないのか。著者は、その恐るべきカラクリを、ひとつひとつ具体的に明かしていく。

カギは「フードシステム」である。これは要するに「流通」のことなのであるが、生産者から食物を買い上げ、消費者に届けるところまでの一連の流れが、とことん腐り切り、堕落しているというのである。

「あなたが食品企業の重役でもないかぎり、フードシステムは、あなたのために機能していない。世界中で、農民と農場労働者たちは、政治家に黙殺され、市場にもてあそばれ、死の淵を漂っている。
 消費者は、加工食品をたらふく食わされ、中毒にさせられている。アグリビジネスの食品とマーケティングは、食に起因する病気を爆発的に増加させ、私たちの身体を害し、世界中の子どもたちの身体に時限爆弾を仕込んでいる。スーパーマーケットは、安価な高カロリー食品をたくさん取り揃えているが、そのせいで地域の経済は大打撃を受けている。私たちは、食べ物の生産現場からも、食の楽しみからも、ますます遠ざけられている」(p.352)

 

著者はフードシステムの全体像を「砂時計」になぞらえる。生産者(砂時計の一番上)と消費者(砂時計の一番下)はたくさんいる。だが、生産者と消費者をつなぐ仕入れ業者や卸業者が極端に少ないのだ。特定の企業がこの部分をがっちり握っているため、農民は彼らの言い値で食糧を売らざるを得ず、消費者は高値で買わざるを得ない。

著者はあるコーヒー農家の例を紹介する。かつてコーヒー豆の売値は1キロ69セントだったが、現在は14セントにまで買いたたかれている。買い取った仲買人は19セントで加工工場に売り、工場は5セントで加工して、2セントの輸送費をかけて輸出業者のもとに渡る。ネスレ社の買い取り額は、輸出業者の儲け1セントを加えても27セントだ。これでもかつて農家が売っていた値段の半分にも届かない。

ところがこれが、ネスレの工場に入る時点で1キロあたり1ドル64セント、そこで焙煎された後は、なんと26ドル40セントになるのである。生産業者が生きるか死ぬかのギリギリでの生活を強いられ、消費者が高い豆を買わされる中で、ただただ中間のネスレだけが肥え太っていくのである。

もちろんこれは「安く買って、高く売る」という資本主義の鉄則に従っているにすぎない。だが、こうした企業が寡占状態で市場ルートを独占しているため、健全な競争原理は働かない。しかもこうした巨大フードビジネスは政治にも影響を及ぼし、その庇護を受け、ロビイングにより政府から巨額の補助金を受けている。

この巨大企業によるボトルネックが、フードビジネスをきわめて不健全なものにしている。さらに言えば、食糧という人々の生命そのものを握る存在が、資本主義の論理のみで暴走しているのが現在の状況なのである。購買力のない貧しい10億人が飢え、一方では、一応の購買力はあるが低所得の10億人が、安価な加工食品で肥り続けるのは、フードシステムがもたらした必然的な結果なのだ。

本書には他にも、巨大企業の中でも悪辣きわまる「モンサント」の手口から、スーパーマーケットという消費者に直接影響を与える巨大企業の問題点までを幅広く取り上げている。ちなみに「日本はどうなの?」という質問に関しては、訳者の佐久間智子が「日本におけるフードシステム」という長大な解説を付しているので、一読されると良いだろう。むしろ食糧自給率の低い日本こそ、フードシステムの影響を受けやすい危険な立場に置かれていることが、これを読むとよくわかる。