自治体職員の読書ノート

読むために書くのか、書くために読むのか。

【2255冊目】アンドルー・ワイル『人はなぜ治るのか』

 

人はなぜ治るのか―現代医学と代替医学にみる治癒と健康のメカニズム

人はなぜ治るのか―現代医学と代替医学にみる治癒と健康のメカニズム

 

 

身体に不調を感じた時、あなたはどうするだろうか。医者にかかる? 薬を飲む? 鍼治療? カイロプラクティック? あるいはホメオパシー

しっかりと権威づけられているものから、あやしげな「代替医療」まで。治療の世界は広く、深い。それだけに、何を信じてよいのか分からなくなることも多い。ガンになって西洋医学に疑問を感じ、「治療法めぐり」に人生を費やす人も多い。

確かに西洋医学が絶対ではない。だが、代替医療もまた万能ではない。では、どう考えればよいのだろうか。本書はそこに、ひとつの明確な視点を導入する。それは、人は「治される」のではなく「治る」のだ、というものだ。

「癒しのわざは、からだがもつ秘密の知恵である。医学にできるのは、それがうまく行われるようにすること以外の何ものでもない」(p.104)

このことがよくわかるのが、プラシーボの存在だ。いわゆる「偽薬」であり、「本物の」薬の効果を調べるために、比較として使用されるダミーの薬のことだ。本物の薬で治った人と偽薬で治った人が同率であれば、その薬は「効果がない」とされる。だが、その考え方は誤りではないか、と著者は言う。むしろ、プラシーボ効果こそが本来の自己治癒能力のあらわれと考えるべきなのだ。だって、その被験者は偽薬を飲むことで、実際に「治っている」のだから。

「医師はプラシーボ反応の除外にではなく、包容にこそ心を砕き、安全で効果的な手段によって、より多くそれを生じさせる努力をすべきなのだ」(p.289)

こうなってくると、治療法が「正統な西洋医療」か「異端の代替医療」かといった問題は、ある意味どうでもよいことになる。極端に言えば、その人の自己治癒能力を開花させ、妨げとなっている要素を取り除くことができれば良いのである。むしろ大事なのは、治療にあたる「人」なのかもしれない。「この人のやり方なら治る」と思わせてくれるような人物であれば、それが医師だろうが鍼灸師だろうがシャーマンだろうが構わない、ということになるのである。

ただしこの考え方は、霊感商法的なオカルト詐欺と紙一重であることも忘れてはならない。治療者のカリスマ性と、巧妙な金銭搾取システムが組み合わさると、人はいとも簡単にひっかかる。その点については、本書はいささかガードが甘いように思われる。治ることは確かに大事だが、治ればよいというものではない。

その意味でも大事になってくるのは、ひとつの治療法に入れ込み過ぎるあまり、他の治療法を安易に否定してはならない、ということだろう。代替医療を否定する西洋医療も、西洋医療を否定する代替医療も、その意味では同じ穴のムジナ。治療にあたる人は誰であれ、「自分が治しているのではない、患者が自ら治すのだ」と認識し、謙虚になるべきなのではなかろうか。

【2254冊目】林芙美子『放浪記』

 

放浪記 (岩波文庫)

放浪記 (岩波文庫)

 

 

「私の詩を面白おかしく読まれてはたまらない。ダダイズムの詩と人はいう。私の詩がダダイズムの詩であってたまるものか。私は私という人間から煙を噴いているのです。イズムで文学があるものか! ただ、人間の煙を噴く。私は煙を頭のてっぺんから噴いているのだ」(p446)

自身の詩について書いた文章だが、私には、この『放浪記』そのものについての文章とも思えた。「私は私という人間から煙を噴いているのです」! まさに脳天から立ち上る噴煙のような、あるいは噴石のような文章の砲列。それこそがこの『放浪記』なのである。

本書は林芙美子の若き日の日記である。正確には、オリジナルの日記をもとに、かなりマイルドに変えたものであるらしい(本書の「解説」を読むと、放送禁止用語乱発のオリジナルの文章がチラ見できる)。だがそれでもやはり、これが林芙美子にしか書けない「頭のてっぺんから噴いた煙」のような作品であることには変わりない。

文章にリズムがある。躍動している。叩きつけ、跳ね回り、それでいて所々の描写が冴えていて、文章がぴしりと締まる。大正期の文章とは思えない……というか、現代でもこんな文章が書けるエッセイストはひとりとしていない。圧倒的な貧窮の中で苦しみ、それでも背筋を張って人生を闊歩する著者の、なんと凛々しく格好いいことか。どのページにも、そんな才気と矜持、必死と決死の切実が唸っている。どれどれ、試しにパラパラとページをめくってみよう。

「あぶないぞ! あぶないぞ! あぶない無精者故、バクレツダンを持たしたら、喜んでそこら辺に投げつけるだろう。こんな女が一人うじうじ生きているよりも、いっそ早く、真二ツになって死んでしまいたい。熱い御飯の上に、昨夜の秋刀魚を伏兵線にして、ムシャリと頬ばると、生きていることもまんざらではない」(p.50)

 

「ああ何だか馬鹿になったような淋しさである。私は口笛を吹きながら遠く走る島の港を見かえっていた。岸に立っている二人の黒点が見えなくなると、静かなドックの上には、ガアン、ガアンと鉄を打つ音がひびいていた」(p.267)

 

「ああ私が生きてゆくには、カフエーの女給とか女中だなんて! 十本の指から血がほとばしって出そうなこの肌寒さ……さあカクメイでも何でも持って来い。ジャンダークなんて吹っ飛ばしてしまおう。だがとにかく、何も彼もからっぽなのだ。階下の人たちが風呂へ行ってる隙に味噌汁を盗んで飲む。神よ嗤い給え。あざけり給えかし」(p.327-8)

 

【本以外】「日本画の挑戦者たち」in山種美術館

昨日から山種美術館で開催している企画展「日本画の挑戦者たち」を見てきた。

 

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かの岡倉天心東京美術学校を辞職、乾坤一擲で立ち上げた「日本美術院」の創立120年記念とのこと。横山大観菱田春草速水御舟など、日本画の新たな時代を切り開いた巨匠から、その流れを戦後に受け継いできた人々まで(この展覧会で言えば、片岡球子平山郁夫まで)を一望できる。これをすべて自前のコレクションで賄っているところに、山種美術館の凄みを感じる。

江戸時代以来の水墨画や浮世絵、錦絵の伝統を色濃く残した初期作品が、どんどん西洋の影響を受けて変容し、その中でも「日本画」のアイデンティティを求めて奮闘する。そんな、西洋と東洋の間に引き裂かれつつ統合を目指す逆向きのベクトルが、この時代の絵のもっとも面白いところだと感じる。

そういう意味では、初期の作品はいわゆる掛け軸等に仕立てられているのに対して、途中から西洋式の額縁の中に絵が入る、という形式上の変化も興味深い。軸装だと縦長の画面が多いのが、額縁だと横長が増えるというだけでも、絵が並んでいる全体の雰囲気が変わってくる。もちろん額縁でも縦長はあるが、掛け軸のようにずっと上のほうに月がぽっかり浮かんでいて、下の方に人物がいて、その間にはただ空間が広がる、といった形式はやはり少なくなる。一方、和式でも屏風絵だと横長になるが、こちらはまた巨大な作品が多く、額縁のように一挙に視界に入りにくいので、スケール感が全然違う。

そう考えると、この展覧会の(第一部の)ラストを飾る平山郁夫の「バビロン王城」が屏風絵だったのは象徴的。独特のオリエンタリズムと、屏風という和風の様式のコンビネーションが面白い。実はこの展覧会、もうひとつ速水御舟の「名樹散椿」という屏風絵が目玉展示となっているのだが、残念ながらこちらは後半のみの登場とのことで、見ることはかなわなかった。

印象に残った絵としては、ポスターにもなっている速水御舟の「昆虫二題」、とりわけ「粧蛾舞戯」が忘れがたい。西洋風の遠近法を取り入れつつ、さらに蛾が飛んでいく先から射してくる光が渦巻き状になっているので、見ていると蛾が実際に動いているような錯覚にとらわれる。エッシャーなどに渦巻きを利用した錯視画像があるが、まさにこの絵は錯視の原理を取り入れている。遠近法を導入するというだけでなく、さらにその先を行っているのである。この時代にこんな絵が描けること自体、信じがたい。

他に朦朧体の傑作、菱田春草の「雨後」「月下牧童」なども素晴らしいし、横山大観の安定感も捨てがたいが、妙に忘れられないのはこの時代には珍しい女性画家、小倉遊亀の「涼」と、松村公嗣の「津軽」という2つの人物画である。「涼」は老婦人を描いたシンプルな作品だが、空間の取り方の巧みさもあって、まるでそこに実際に座っているかのような厚みというかリアリティが感じられ、不思議な魅力を感じた。「津軽」は津軽地方の庶民の女性を描いているのだが、こちらは人物のどっしり、ずっしりとした存在感が圧倒的。普段は人物画より風景画に目がいくことが多いのだが、この2作からはしばらく目が離せなかった。

 

【2253冊目】南直哉『老師と少年』

 

老師と少年 (新潮文庫)

老師と少年 (新潮文庫)

 

 

けっして、難しい言葉は使われていない。読んでいても、分からないという感じはしない。でも、分からない。分からないのが、どこか心地よい。

こういう読書体験はなかなかない。答えより、問いの中に真理がある。老師に対して尋ねる少年の言葉の中に、すべてがある。

老師もまた、答えを与えるわけではない。問いはさらなる問いをもって返される。問いに対する別の問いに、答えを超える何かがある。

「人はなぜ死ぬのか。なぜ生きるのか」 

 

「自分とは何か。自分であるとはどういうことか」

 

厨二病と言えば言える。そんなこと、考えたって答えは分からない、と言えば言える。だが、その問いに対して真摯に問いを返し、言葉をめぐらせ、その果てにたどりついた一言の深さと重さたるや。だが、それだけをここに引用するのは、意味がない。少年と老師の言葉のやり取りを最初から追って行かなければならない。

ひと言だけ言っておきたい。厨二どころか四十歳を過ぎて、私は本書の「結論」に、深く納得した。この本にもっと早く出会っておけば良かったと、痛切に思った。だがひょっとしたら、私が中学生の頃に本書に出会っていても、その結論には納得しなかったかもしれない。今だからこそ、心の奥底にその言葉が響いたのかもしれない。

読み返すたびに新たな発見があり、新たな問いが見つかる。これは、私にとって永遠の一冊になりそうだ。

【2252冊目】スティーブン・スローマン、フィリップ・ファーンバック『知ってるつもり 無知の科学』

 

知ってるつもり――無知の科学

知ってるつもり――無知の科学

 

 

まずは一つ、質問を。あなたは、トイレの水が流れる仕組みを知っているだろうか? 一般的な水洗トイレでOKだ。

では、2つ目の質問。その仕組みを、実際に説明してみてください。

ここで、もう一度質問しよう。あなたは、トイレの水が流れる仕組みを知っているだろうか?

このような問い方をすると、最初の質問で「分かっている」と答えた人の多くが、最後の質問では「知らない」と答えるという。別に、最初は答えられないからごまかしたというワケではない。多くの人が、トイレの水が流れる仕組みを「わかっているつもり」になっていただけなのである。

同じことが、いろいろな事例にあてはまる。地球温暖化のメカニズムはどうだろう。グローバリズム保護主義についてはどうか。リモコンを押すとテレビがつく仕組みから、法律ができる仕組みまで、この世の中は「知っているつもりだが、実はよく知らないこと」に満ちあふれている。

本書は、この「知らないこと」自体を非難する本ではない。私たちの生活を取り巻く事柄だけでも、すべてを知ることはおそらく不可能だ。問題は、私たちが「無知を認識しない」ことのほうなのである。

ソクラテスは言った。「あなたは無知だが、自分が無知であることを知らない。私も無知だが、自分が無知であることを知っている」 本書はこの偉大な言葉をめぐる一冊であると同時に、さらにその先、そもそも「知識」とは何か、「賢い」とは何かという問いに正面から答えようとした本である。キーワードは「知識のコミュニティ」。「知」とは、実は個人の中にあるものではなく、個人と個人の「あいだ」にあるのである。