読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

自治体職員の読書ノート

仕事は福祉系。読書は雑食性。業務連絡はnsa59871atmarkexcite.co.jpへどうぞ。

【2207冊目】青野太潮『パウロ』

 

パウロ 十字架の使徒 (岩波新書)

パウロ 十字架の使徒 (岩波新書)

 

 

「すると主(イエス・キリスト)は、私に言われたのである。「私の恵みはあなたにとって十分である。なぜならば、力は弱さによって完全になるのだからである」(本書p.148 「コリント人への第二の手紙」より)

 

パウロキリスト教ユダヤ教から「独立」させ、世界宗教にした立役者であり、「最初の神学者」とも呼ばれる人物だ。だが、実際にパウロが何をしたのかと言われると、何ともわかりにくく、捉えにくい。本書はそれを「十字架の逆説」というキーワードを軸に読み解き、キリスト教の本質に斬り込んだ一冊だ。

そもそもユダヤ教では、「律法」を守ることが重視された。それは、自らの行動を律することのできる「心の強さ」が求められていた、と言ってもよい。

こうしたヘブライストの考え方からすれば、十字架にかけられたイエスは「躓き」であった。また、理性に価値をおくギリシア人にとってみれば、それは「愚かさ」であった。だが、パウロはそこでイエスの強さや賢さを訴えるのではなく、「弱さこそが強さ」「躓きこそが救い」「愚かさこそが賢さ」であると言い切って見せた。そして、その「弱さ」への転換こそが、キリスト教世界宗教に変貌させる大きなトリガーになったのである。

思えばキリスト教の恐るべきラディカリズムは、この「弱さこそが強さ」という価値観の逆倒にあったのだ(これに匹敵する逆倒を行ったのが、「悪人なをもて往生す」と説いた親鸞らの浄土真宗であったのだろう)。もっとも、こうした強烈な逆説は、時と共に徐々に薄まっていくことが多い。キリスト教もまた、カトリックが力を持ち、教皇が皇帝をも従わせるようになると、その本質を見失いかけてきた。

 

だが、その中でも修道院において比較的純度の高い教えが保存され、かたや、宗教改革の中で、ルターらによって「十字架の逆説」が再確認された(プロテスタンティズムの教えも「救済は予定されている」という点で「十字架の逆説」を継承しているといえる)。さらに言えばニーチェは、この「本質」こそがヨーロッパを呪縛していることに気付き、「超人思想」という強烈なアンチテーゼを放ったものと思われる。

本書はその出発点となったパウロについて、生涯から思想までをバランスよく扱った一冊だ。門外漢にとってはもっともわかりにくいキリスト教の原点ともいえる部分をピンポイントでえぐり取っており、参考になる点が多い。だが何といっても凄みを感じるのは冒頭の「力は弱さによって完全になる」と言い切った一文だ。そういうものがあるのかどうか知らないが、まさにこれは「弱さの哲学」のマニフェストなのである。

【2206冊目】阿川佐和子『聞く力』

f:id:hachiro86:20170424181600j:plain

 

 

「話を聞く。親身になって話を聞く。それは、自分の意見を伝えようとか、自分がどうにかしてあげようとか、そういう欲を捨てて、ただひたすら「聞く」ことなのです」(p.148-149)

 



2012年のベストセラー。いまさら手に取るのもちょっと悔しいが、さらに悔しかったのは、読んで目からウロコがボロボロ落ちたこと。ああ、もっと早く読んでおけばよかった!

「聞く」にも、いろいろある。特に、仕事で「聞く」場合、必ず何らかの目標なり、「聞くべき内容」があるものだ。私が今やっている福祉の仕事で言えば、相手の悩み事を(その場で解決策を求めようとせずに)ひたすら「傾聴」することもあれば、目の前に迫った危機を回避するための方法を検討するための「情報収集」として話を聞くこともある。あるいは調査として聞き取る場合、80項目もの決まった内容を、それぞれ具体的に聞かなければならない。

いくら「決まっているから」といって、脈絡なく機械的に聞かれたら、答えるほうだって機械的になってしまう。だが、相手の脱線にいつまでも合わせていたら終わらない。さて、どうするか……。こんな「場面」はしょっちゅうだ。本書はベースがインタビューなので、基本的には「脱線でも面白ければそっちの方へ」といったスタンスなのだが、それでもいろいろヒントが隠されている。

トークは生もの」という鶴瓶さんのセリフが印象深い。結局、どんな場面にせよ、会話というのは自分と相手という「場」と「流れ」によって作られてしまうものなのだ。大事なのはそれを寸断することではなく、かといって漫然と「流れのままに」脱線しまくることでもなく、うまくナヴィゲーションしていくことなのかもしれない。

そして、ひたすら「傾聴」という場合に大事なのが、冒頭の心構え。いやいや、相談を受けていると、何かエラそうな人生訓みたいなことを言いたくなっちゃうんですよね。でも、絶対ダメ! 聞き手は水を向けるだけ。人生訓はその人自身が発見するのです。

【2205冊目】丸山正樹『漂う子』

 

漂う子

漂う子

 

 

「血はもうとっくに入れ替わった。
 今の俺は、細胞から全部俺のもんだ」(p.202)

 


前作『デフ・ヴォイス』でろう社会という「見えない社会」を描いた著者が今回テーマとしたのは「居所不明児童」。文字通り、居場所がわからない子どものことだ。その数、把握できているだけでなんと1,500人近く。

主人公の直はフリーカメラマン。恋人で教師の祥子を手伝う形で、行方の知れなくなってしまった教え子を探しに名古屋に行く。そこで目にした、遺棄や虐待のすさまじさ、そこを飛び出した子どもたちを待っている過酷な現実……。

結末を言ってしまうとネタバレになってしまうのでここまでにしておくが、実はこの物語、「子どもはほしくない」「父親になる自信がない」と言う直自身にとっての、ある種のイニシエーションとなっている。その、直がつかみとった確信と覚悟がどのようなものかは、本書をお読みいただくしかない。

子が親となり、親が子を産む。この連鎖の中で、人間は成り立っている。親子のしがらみが虐待を作り出し、子が親となることへの不安を生み出す。だが一方では、親からもらった細胞など、せいぜい数年でまるごと入れ替わってしまうのだ。冒頭に掲げたのは、そんな実感を叫んだ元被虐待児の「シバリ」の言葉。そうなのだ。要は自分が、自分自身をどこまで信じてやれるかということなのである。

【2204冊目】白川静『文字講話1』

 

文字講話 I (平凡社ライブラリー)

文字講話 I (平凡社ライブラリー)

 

 

「外国のことを研究する場合には、わが国のことを比較してどうかということが、いつもその根柢にある。そういう意識があって、はじめて問題となりうるのであって、もしそういう問題意識がなくては、研究の対象となりえないのです。わが国のことを考えるがゆえに、その比較の対象として、中国のことを調べるのです」(p.134)

 

1999年から2004年にかけて行われた、白川静・伝説の講義の記録。4冊のうちの1冊目だが、序盤からすでに、その充実度は普通ではない。生涯を学問と読書に捧げてきた学究の中の学究が、その到達点を万人のために示そうとしているのだから、これはまったく、滅多にない一冊なのである。

第1話が「文字以前」から始まるところが、すでに著者の本気度を示している。古代中国の甲骨文字・金文から、時にヒエログリフ、時に万葉集日本書紀と東西を自在に飛び回り、しかも掲げられたテーマの本質に食い込むような議論が展開される。

個人的に面白かったのは、第4章「数について」。ここでは、数の数え方が「対」になっているという指摘が興味深い。例えば「ひとつ」「ふたつ」が一対だというのだが、そもそも「ひとつ」は「ひと」つまり人間に由来するというのがびっくりだ。これが「振ゆ」(振動する→動く、複数的になる)と「ふたつ」になる。これで一対。次は「みっつ」と「むっつ」で、さらに「よっつ」と「やっつ」、「いつつ」と「とを」がそれぞれ対になる。ここまでは倍数関係で、それぞれに語源的な説明があるのだが、長くなるので省略。「ななつ」「ここのつ」は余り物をまとめたような一対だが、これもこれで意味がある。

さらに漢字の「壹(一)」「貮(二)」・・・・・・についても、これはこれでいろいろな意味が込められているのだが、これはぜひ本書を読んでほしい。身近な字や概念であればあるほど、その文字に込められた意味の奥深さには驚かされる。

つまりこの「文字講話」は、単なる文字の解説ではなく、身近で根源的な文字の意味を明らかにしていくことで、実は世界そのもの、人間が世界を理解してきた方法そのものの深奥をあきらかにする一冊(四冊)なのである。

【2203冊目】東畑開人『野の医者は笑う』

 

野の医者は笑う: 心の治療とは何か?

野の医者は笑う: 心の治療とは何か?

 

 

「治癒とはある生き方のことなのだ。心の治療は生き方を与える。そしてその生き方はひとつではない」(p.266)

 
ヒーラー。占い師。スピリチュアル。パワーストーン。天使。霊。前世。

既成の医学にあてはまらない、ちょっと(かなり?)怪しげなこうした「治療者」たちを、著者は「野の医者」と呼ぶ。一見するとタダのオカルティズム。だが、そこに通って実際に治る人がいて、治療者になる人もたくさんいるのは、いったいなぜなのか。

気のせい? プラシーボ効果? そうかもしれない。だが、著者が「野の医者」たちと出会い、実際に施術を受け、スクールに入った結果見えてきた世界は、こうした先入観とははるかに遠いところにある。もちろん、単純に「取り込まれた」ワケではない。むしろ、西洋近代医学の「先入観」を脱し、「治癒」ということの本質に届いた、というべきだろう。

面白いのは、こうした「野の医者」の多くが、以前は心を病み、ヒーリングや前世療法を受けていたこと。著者の言い方にならえば、「ミイラ取りがミイラになった」のではなく「ミイラがミイラ取りに」なってしまったのだ。このこと自体、「医者」と「患者」をはっきり分ける西洋医学ではありえない考え方だろう。医者は「治す人」、患者は「治される人」。それが現代のジョーシキだ。

だが、これってはたしてまっとうなことだろうか。医者も人間なのだから、本当は患者になってもおかしくない。というより、そもそも「健康」と「病気」を分ける考え方自体がおかしいのかもしれない。人は誰しも、多かれ少なかれ病んでいる。100パーセントの健康なんて存在しないのである。

著者がたどり着いた「治癒」の本質が冒頭の引用のようになるのも、そういうこと。治癒とか治療というものは、実は普通に考えられているよりも相対的であやふやなものなのだ。そのことが確認できただけでも、本書を読んでよかった。