【2396冊目】橋本健二『新・日本の階級社会』

 

新・日本の階級社会 (講談社現代新書)

新・日本の階級社会 (講談社現代新書)

 

 

一億総中流はどこへやら、日本が「格差社会」であると言われて久しい。だが、本書の著者はさらに一歩進んで、こう断言する。日本はもはや格差社会というより「階級社会」である、と。

階級社会と言われて多くの人がイメージするのは、イギリスだろうか。上流階級と下層階級で、応援するスポーツも入る店も着る服も歴然と異なる社会。しかもそれが、何世代にもわたって固定されている。下層階級の家庭に生まれれば、ほとんどは一生そのままで、上流階級に這い上がるチャンスは無いに等しい。

いくらなんでも、今の日本でそこまでは・・・と思わる方もいるかもしれないが、著者は膨大なデータの分析をもとに、階級の固定化が日本でも起きていることを明らかにしていく。それだけではない。一般に、階級社会では「労働者階級」が最下層に置かれることが多い。だが日本では、その下に「アンダークラス」という新たな階級が生じている。しかもその数は、どんどん増え続けているのである。

アンダークラスの中心をなすのは、いわゆる非正規労働者である。その数は929万人、就業人口の14.9%を占め、女性比率は43.3%と他の階級にくらべて高い。労働時間はフルタイム労働者と変わらない人が過半数だが、平均個人年収は186万円で正社員とは雲泥の差。世帯年収は平均343万円だが、これは同居家族の所得によって引き上げられているにすぎない。アンダークラスを含む世帯の63.8%は年収350万円未満、24.1%は200万円未満。貧困率は38.7%、女性では48.5%。夫と離死別した女性ではなんと63.2%にのぼるという。ちなみに驚いたのは、男性では身長にも階級による違いがみられ、アンダークラスはもっとも身長が低いということ。健康状態、抑うつ傾向でもアンダークラスは他の階級より高い。

著者はこうしたアンダークラスの特徴を「所得水準、生活水準が極端に低く、一般的な意味での家族を形成・維持することからも排除され、多くの不満をもつ、現代社会の最下層」(p.93)とまとめている。さらに興味深いのは、アンダークラスマルクスエンゲルスが描いた「古典的な労働者階級の条件」にあてはまるにもかかわらず、政治的には右翼的、排外主義的であって、政党で言えば格差拡大をもっとも容認してきた自民党との親和性が高いこと。そのため、格差縮小を求めているにも関わらず、これを実現する政治的回路がなく(格差縮小を唱える共産系や民主系への支持率は低い)、むしろ排外主義へと「誤爆」しているのが現状であるという。

こうしてアンダークラスは社会の最下層に置かれることを強いられ、不満はいわゆる「嫌中・嫌韓」の方向に押し流され、政府や他の階級からはほとんど見て見ぬふりをされ、あるいはいいように利用されている。だが、彼らの存在は彼ら自身の困窮に加えて、低い婚姻率や出生率など、日本の国力自体の弱体化にもつながりかねない。また、十分な貯金もないであろう彼らが稼働能力を失った時に頼るものといえば生活保護しか手段がない。そのため、アンダークラスの中心をなす就職氷河期世代の高齢化に伴い、莫大な生活保護費がそこに投じられることとなる。アンダークラスの存在は彼らだけの問題ではなく、日本という国家そのものが抱え込んだ時限爆弾なのである。

ちなみに、最近はさすがに少なくなったが、一時期は非正規雇用者に対して「自己責任」であるという言い方がされていた。これに対して著者は、非正規雇用を生み出してきたのはむしろ企業や政府であり、「自己責任論は、本来は責任をとるべき人々を責任から解放し、これを責任のない人に押しつけるものである」(p.270)と指摘する。そんな指摘はどこ吹く風、日本政府は、所得税法人税最高税率をどんどん下げる一方で、逆進性の強い消費税の増税を進めようとしている。いったいこの国は、どこに行こうとしているのだろうか。

 

【2395冊目】竹内薫・竹内さなみ『シュレディンガーの哲学する猫』

 

シュレディンガーの哲学する猫 (中公文庫)

シュレディンガーの哲学する猫 (中公文庫)

 

 

シュレディンガーの猫」と言えば量子論を説明する際に使われる「生きていて、同時に死んでいる」奇妙な猫のことであるが、本書自体は別に量子論の解説本じゃなくて、「シュレ猫」を狂言回しに、古今の哲学を紹介する一冊なのである。ああ、まぎらわしい。

とはいえ著者の一人がサイエンスライター竹内薫であるから、ニーチェサルトルフッサールハイデガーに加え、科学哲学のファイヤアーベントや環境思想のレイチェル・カーソンなどが入っている。廣松渉大森荘蔵が入っているのも類書に例がない(それにしても廣松哲学は難しい・・・)。でも一番びっくりしたのは、サン=テグジュペリが入っていたことだ。

竹内薫氏が解説文、妹の竹内さなみがシュレ猫とのやり取りの部分を担当しているようだが、残念なのは両者があまり連動していないこと。解説文は正直かなり難しいと感じたが、それでも廣松やハイデガーを直接読んだ時の途方に暮れるようなわかりにくさに比べると、圧倒的に理解しやすいものだと思う。内容について触れだすとキリがなさそうなので、今日はこのへんで。手に取る機会があれば、気になる哲学者のくだりから読み始めていただければと思う。

【2394冊目】ジョン・チーヴァー『巨大なラジオ/泳ぐ人』

 

巨大なラジオ / 泳ぐ人

巨大なラジオ / 泳ぐ人

 

 

20世紀半ばのアメリ中産階級の生活を描いた短編小説をたくさん書いた作家、と聞いただけで、チーヴァーに惹かれる人はあまりいないだろう。私だって、村上春樹柴田元幸が対談で絶賛していなければ、手に取ることさえなかったはずだ(『本当の翻訳の話をしよう』所収。もとになっているのは本書所収の「解説対談」だが))。ある作家に出会えるかどうかなんて、本当にちょっとしたきっかけで変わってくるものなのだ。

お二人が勧めている時点で面白くないはずがないのだが、実際読んでみてびっくりしたのは、他の作家の小説ではあまり感じたことのない、不思議な「質感」があったこと。なんというか、架空の物語なのだけれど、そこに人がいて、呼吸していて、会話していて、食事していて、生活しているということに、妙に実感があるのである。これっていったい、何なんだろう。

平凡な生活を描いているようで、その中に「裂け目」を作り、いつの間にか異様な光景が広がっている、という作品が多いのだが、その裂け目がいつあらわれたのかわからないほど小さく出現し、徐々に広がっていく。「巨大なラジオ」で言えば、最初は夫が買ってきたラジオに拒否感を覚える妻が、徐々にラジオから聞こえてくる近所の家の「音」にハマっていくという、これだけ書くとなんとも荒唐無稽な話なのだが、実際に読んでいると「そんなこともあるかもしれない」という気になっていく。

「泳ぐ人」は、家までの道を「プールで泳ぐ」ことをつないで帰るという発想自体が、どこの家にもプールがある郊外のアメリ中産階級の生活そのものなのだけれど、怖いのはその家の人が「あなたのご不幸を耳にして、わたしたちとても心を痛めていたのよ」なんて言い始めることだ。しかも、具体的に何のことか尋ねると「あなたが家を売ったっていう話を聞いて、それから気の毒なお子さんたちのことも・・・」なんて言い出すのである。自分は家も売っていないし、子どもも家にいるはずなのに! だが主人公が家にたどり着くと、家にはカギがかかっていて、ぼろぼろの状態で、中には誰もいないのである。

こうした「奇妙な話」以外にも、困った隣人の話や夫の浮気の話など、なんでもない日常のちょっとしたトラブルや問題がどんどん大きくなる、という話が、この作家は本当にうまい。それを一言で言い表すなら、ある短編のタイトルにもなっている「林檎の中の虫」だろう。これは「一見幸福に見える状況の中に潜む不吉なもの、不適切なもの、ものごとを内側から駄目にしてしまうネガティブな何か」をいう英語の慣用句らしい。そうなのだ。チーヴァーはたぶん、この「虫」を書きたくて、外側にある平穏で幸福な暮らしという「林檎」を書いているのである。

【2393冊目】マリーナ・レヴィツカ『おっぱいとトラクター』

 

おっぱいとトラクター (集英社文庫)

おっぱいとトラクター (集英社文庫)

 

 

ギョッとするタイトルだが、原題は「ウクライナ語版トラクター小史」。邦訳の方がずっといい(カバーを掛けずに読むのは勇気がいるけど)。

2年前に亡くなった母の残した遺産をめぐっていがみ合う、主人公のナジェジュダと姉のヴェーラ。だがその間に、とんでもないことが起きていた。愛妻を亡くし悲嘆にくれているはずの父ニコライ(84歳)が、ウクライナ人の巨乳女(36歳)と結婚するというのだ。どう考えても財産目当て、イギリスのビザ目当ての女から父を守るべく、あわててタッグを組んで対抗しようとする姉妹だが・・・ 。 .

イギリスのコメディ賞を受賞しただけあって、とにかく読み始めたら面白くてやめられなくなる。特に、ナジェジュダとヴェーラの「最強姉妹コンビ」と対等以上に渡り合う、ウクライナ女ヴァレンチナのキャラが見事。頼りないばかりの男どもの描写は耳が痛いが、アップテンポで展開されるすさまじい「女のバトル」を読むだけでもこの本を読む甲斐がある。

だがそれだけではない。コミカルな展開の裏側に見えてくるのは、世界大戦でドイツやソ連に徹底的に蹂躙されたウクライナのすさまじい歴史であって、略奪や強制収容所の日々を生き延びてきた父母の人生。頼りない一方に見えた父がラスト近くにつぶやく一言が印象的だ。

 

「いいかねナージャ。生き延びてこそ勝ちなんだぞ」

 


思えば戦争をくぐり抜けてきた人々の多くが、多かれ少なかれこうした体験をし、そのことを語らぬままに私たちの隣で人生をまっとうしているのだ(日本で言えば従軍体験や、あるいは空襲や原爆、沖縄の地上戦体験やシベリア抑留など)。この物語は、そんな歴史を思い出させてくれる「裂け目」のようなものなのである。

【2392冊目】中野信子『脳内麻薬』

 

 

「何かを成し遂げ、社会的に評価されて感じる喜び」と「ギャンブルやセックスによる快感」は、実は同じものである。これらはいずれも「ドーパミン」という神経伝達物質の作用なのだ。ドーパミンだけではない。脳内には100種類以上といわれる神経伝達物質が絶えず放出され、そのたびにわれわれは、快感や怒りや落ち着きなどのさまざまな感情に襲われる。人間は感情の動物と言われるが、その感情はすべて脳内の神経伝達物質によって強力にコントロールされているのだ。

 

その極端な形態が依存症だ。著者は「依存症は決して心の弱さといったものが原因ではなく、脳内の物質の異常から来る病気である」(p.32)という。酒やギャンブルに溺れるのは意志が弱いからだ、などというのは脳科学的にはナンセンス。神経化学物質の威力は、たかが「意志」程度でどうにかなるような甘いものではない。だからわれわれは、依存症のメカニズムをしっかりと認識し、「科学的」に対処していかなければならないのだ。

 

本書は、こうした神経伝達物質の分泌に影響を及ぼすさまざまな物質についても丁寧に紹介している。ヘロインとマジックマッシュルームとLSDの違い、アヘンとモルヒネとヘロインの関係など、いささか「ヤバめ」の知識も盛り込まれているが、それはやはり、薬物依存もまた神経伝達物質の作用であり、自力で脱出することが難しいためなのだ。ちなみにモルヒネはアヘンから分離されたもので、ヘロインはモルヒネから合成されたものだという。知ってました?

 

後半は依存症の解説がメイン。アルコール、薬物、ニコチン、セックス、ギャンブルと多様な依存症が紹介されるが、いずれも最終的にはドーパミンのもたらす作用に収斂する。興味深いのは、ドーパミン受容体の少ない人は肥満傾向(つまり食事への依存)に加え、他の依存症にもなりやすいという指摘。そこに働いている「見かけ倒しのご褒美」というシステムが面白い。例えば肥満傾向の人にミルクセーキを飲ませると、ドーパミンミルクセーキを「飲む前」「まさに飲もうとするとき」に大きく活動し、飲んでいる間は分泌が減少するという。だから飲んでも十分な満足が得られず、かえって飲み続けてしまうのだ。

 

「仕事で周囲に認められる」といった社会的報酬についても触れられているが、ここではある発想転換テストの結果が興味深い。発想力を問われるような問題で、被験者を2つのグループに分け、一方のグループでは早く解いた人に一定額の報酬を支払うこととするが、もう一方のグループは金銭的報酬を約束しない。すると、なんと「金銭的報酬を約束された」グループの方が、顕著に時間を要した(つまり、お金をもらう方が仕事が遅くなった)というのである。

 

もっとも、単純作業の場合は金銭的報酬があったほうが高い成果が得られ、ある程度複雑な問題に対してのみ、この傾向は見られるらしい。知的労働に関しては、金銭的報酬で「釣る」のはかえって有害無益ということなのだ。成功報酬とか成果主義って何なんだろう、と思わせられる結果ではないだろうか。