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自治体職員の読書ノート

仕事は福祉系。読書は雑食性。

【2068冊目】宮部みゆき『荒神』

謎・恐怖・幻想

 

荒神

荒神

 

 
江戸時代の架空の藩「香山藩」と「永津野藩」を舞台にした、なんと怪物小説。怪物のような小説という意味ではなく、本当に怪物が出てくるのだ。

ある種のパニック小説なのであるが、そこに2つの藩の確執と因縁を絡めて奥行きをもたせつつ、500ページ以上を一気に読ませるという、さすがの力技小説。荒唐無稽とも思える題材から長大な物語を紡ぎだす腕っぷしの強さは、宮部みゆきスティーヴン・キングか、といったところ。

怪物の気配を冒頭から漂わせつつ、著者は決して急がない。香山藩と永津野藩を行ったり来たりしながら、たくさんの登場人物をじっくり書き分け、さらには歴史の因縁を徐々に明らかにしていく。ここの「溜め」があればあるほど、後半の加速が効くのである。しかも怪物の姿が物語の半ば、ページ数でいうと250ページあたりまで出てこない。スピルバーグが『ジョーズ』でやったことと同じである。さすがにこの手の小説の骨法をよくわかっていらっしゃる。

それだけに、怪物が永津野藩の砦を襲うところからの展開は容赦ない。両藩の登場人物が一挙にねじり合わされ、過去の秘密が明らかになり、そして壮絶なラストシーンまで物語は猛スピードで進んでいく。特に砦の襲撃シーンでは、そこまで抑えに抑えた筆致を、著者が一気に解放しているのを感じる。絶対に楽しんで書いているな、これは。

そういうことで、エンタメとしては申し分のない作品なのだが、あえてひとつだけ気になったことを言うと、怪物の由来や正体について、いささか理が勝ちすぎているように感じた。小説の舞台が福島あたりということもあって、あまりにも怪物が「原発メタファー」「核兵器メタファー」に読めてしまうのだ。もっとわけのわからない絶対的な悪の塊であったほうが、読み手は絶対に怖いと思うのだが。キングだったらたぶんそうするのではなかろうか。『IT』や『ニードフル・シングス』がそうだったように。

【2067冊目】シモーヌ・ヴェイユ『根をもつこと』

原理・思想・宗教

 

根をもつこと(上) (岩波文庫)

根をもつこと(上) (岩波文庫)

 

 

 

根をもつこと(下) (岩波文庫)

根をもつこと(下) (岩波文庫)

 

 
今後、何度も読み返すことになるであろう一冊。今回はご挨拶代わりに、全体をさっと一読しただけ。それでもけっこう時間がかかった。歯ごたえがある。

再読、再再読で印象はどんどん変わってくると思うのだが、今の時点の印象では、「根こぎ」「根をもつ」というフレーズが強烈だった。人間はどこかに根をもっている必要がある。だが今や、どこでも人間存在そのものが根こぎにされている。労働からも、国家からも、社会からも……。

人は、自分ひとりでは生きられない。必ずやどこかに身を置き、そこに身を預けなければ、生きていくこと自体が務まらない。だが、この「預ける」というのが難しい。しかもヴェイユは、一か所ではなく複数の土壌に根を張るべきだという。

だが、そんな土壌が今や(といっても1940年頃)失われつつある。それも国家によって。「国家は冷たい存在で愛の対象たりえない。その一方で、愛の対象たりうるいっさいを抹殺し解消する。かくてわれわれは国家を愛せよと強いられる。ほかになにも存在しないから。これこそ現代人に課された精神的な呵責である」

今の日本でも、あてはまりそうな部分は多い。かつて多くのサラリーマンが根をもっていた会社は、不況となると容赦なくリストラを行うことがわかってしまった。地域のコミュニティも崩壊しており、他によって立つべき信仰もない。非正規雇用の若者であれば、なおさらだ。

そもそも、日本は過去に大規模な「根こぎ」を経験している。国家もろともの根こぎである。こんな一節がある。

「征服した国を同化したとフランスの諸王が讃えられるとき、その実態はほかならぬ諸王がこれらの国を大々的に根こぎにしたということだ。根こぎはだれにでも使える安直な同化手段である。自分の文化を奪われた人びとは文化なしでとどまるか、征服者がありがたく恵んでくれる文化の断片をうけとるか、そのいずれかである」

下巻の「根づき」と題された章では、科学中心主義や人間中心主義が厳しく退けられ、信仰の問題が大きく取り上げられる。キリスト教をベースにした内容だが、それでも老子のフレーズやインドの説話などが不意に挿入されるのがやや意外。「根こぎ」「根づき」との直接の関係ははっきり判読できなかったが、おそらくはそこに向かって身を預けろ、ということだろうか。次のフレーズが特に印象に残った。

「地上を支配するのは限定であり限界である。永遠なる叡智はこの宇宙をひとつの網目、もろもろの限定の網のなかに閉じこめる。宇宙はそのなかで暴れたりはしない。物質の粗野な力はわれわれには支配者のごとくみえるが、実態としてはまったき従順以外のなにものでもない」

では、人間は自らの判断や思考を捨てて神=永遠なる叡智に身を預けよ、ということなのかと思いきや、最後に突然「思考」の優位性が強調されるのでちょっと戸惑う。

「地上における諸力は至上権を行使する必然によって決定される。必然はそれぞれが思考にほかならぬ種々の関係性により構成される。つまり地上における至上の支配者たる力は、思考によってみごとに支配されるのだ。人間は思考する被造物である。よって力に命令をくだすものの側にいる」

もっとも、ここでいう「思考」は私的な思考であってはならない、ともヴェイユは言う。それは「真の注意力の効能によって魂をからっぽにして、永遠なる叡智が思考をみたすままにしておくなら、すべては変わる。そのとき、力を服従させる思考そのものを自身のうちに宿すことになろう」というような類の「思考」なのだ。

こうなってくると自即他、融通無碍、あたかも自分自身に神が流入して思考をもたらすというものになってきて、これは思考を超えているようにも思う。仏教にいう縁起のようなものに近いのだろうか。西洋の思想家ながらどこか東洋的で、しかし一本芯のとおった哲学者ヴェイユの、遺言のような大著である。

【2066冊目】信田さよ子『加害者は変われるか?』

福祉・教育・医療

 

加害者は変われるか?: DVと虐待をみつめながら (ちくま文庫)
 

 
日本のDV対策は、良くも悪くも、被害者のことばかり考えてきた。

被害者が相談できる仕組みがつくられ、そこからシェルターに逃がすノウハウも進化した。だが「加害者」に対してはどうか。法律上、せいぜいできるのは保護命令。被害者が告訴しなければ犯罪にもならず、ましてや教育プログラムを裁判所命令で義務付けられることはない。

だが、これはどう考えてもおかしい。著者がいうように「妻が逃げるしかないのではなく、夫が変わるべき」なのである。そのための重要なステップが、DV加害者向けの教育プログラム。そこでカギとなるのは、加害者が「加害者であることを自覚」することだ。

そうなのだ。DVの加害者の多くに共通するのは、なんと「自分が加害者であるという自覚がそもそもない」ということなのだ。むしろ「自分は被害者」だと思い込んでいる人が多い。妻が「ちゃんと」家事をやらないから。妻が「自分勝手に」物事を決めるから。妻が「非常識な」ことをするから……要するに「妻が悪い。自分は被害者だ。妻を「正しく導く」ためには、暴力もやむを得ないのだ……」

だが、ここでいう「ちゃんと」「常識」「正しい」とは何か。それを定義しているのは誰なのか、というと、これは「夫」なのである(なお、DVの加害者のほとんど(98.8パーセント)が夫であり、被害者のほとんどが妻であることから、本書にならってこの読書ノートでも「加害者=夫」「被害者=妻」と固定的に書く。ここで「ごく一部でも妻が加害者のケースはあるのだから……」と言い出す人もいるのは承知しているが、そういう物言い自体がDVの問題を不必要に相対化し、矮小化する危険性を帯びているのである)。

著者はここでフーコーにならって、何が正しいかを決める力を「状況の定義権」と呼ぶ。フーコーによれば、権力とはこうした「何が正しいかを決める力をもっていること」のことを言うのだそうだ。DVでいえば、この「状況の定義権」を握っているのは夫である。「何が正しいかは自分が決める」「妻はそれに従うべきである(なにしろ「正しい」ことなのだから)」「従わない妻に対する暴力は許される」という狂気の三段論法が、多くのDVの基本ロジックである。

だが、なぜ世の夫たちは、自分にとっての「正しさ」を無邪気に確信できるのだろうか。ここでなるほどと思い、同時に慄然としたのは、その「正しさ」や「常識」「妻はこうあるべき」といった規範が、自分自身の育った家庭環境に由来している、ということだ。その中でも、特に妻の存在が、自分の「母親」と重なり合ってしまっている。夫にとって妻は「母親」の代わりなのであって、到底対等の人間などではないのである。

さらに厄介なのは、こうした夫の規範を妻自身が(やむにやまれず)取り込んで、「夫が暴力を振るうのは自分が悪いから」と思い込んでしまうことだ。つまり。今度は被害者であるはずの妻が「加害者意識」を持ってしまうのである。この「加害者が被害者意識をもち、被害者が加害者意識をもつ」というねじれた構造が、DVの解決を難しくしている。

だからカウンセリングや教育プログラムは、加害者が加害者意識をもち、被害者が被害者意識をもつ(というと妙だが、要するに「これはDVである」「自分は被害者である」という認識をもつ)ことに始まり、おそらくはここに終わるのだ。そのためにも、まずは加害者への教育プログラムを義務化し、関係修復のための必須要件にしていかなければならないのだが……。

【2065冊目】吉村昭『天に遊ぶ』

 

天に遊ぶ (新潮文庫)

天に遊ぶ (新潮文庫)

 

 

原稿用紙10枚という「超短編」21編が収められた一冊。

起承転結、とはよく言われるが、本書の中にはこれが全部詰まったものもあれば、「起承転」や「起承」だけのような作品もある。必ずしも小説として完結させず、宙に放るようにして終わっているものも少なくない。

だが、どの作品にも共通して、ある種の「手触り」が感じられる。生活の手触り、あるいは人生の手触りというような。匂い、音、さらには気配のようなものさえ、短い文章の中にたゆたっている。人生の断面図のような小説だが、それでも広がりがあって、奥行きがあるのである。その意味で、例えば星新一ショートショートとは、長さは似ていてもまったく異なる。

例えば「西瓜」という短編では、別れた妻から呼び出されて喫茶室で会うまでの微妙に高揚した気持ちや、訥々とした二人の会話のリアリティが絶妙で、そこから別れた妻への執着や、妻の方も自分を悪く思っていないであろうことがじわじわと伝わってくる。そしてラスト、「君枝は、このまま自然に自分のマンションについてくるにちがいない」という内心のつぶやきを最後に、小説はぷつりと終わる。

その確信が事実であるか、あるいは単なる慢心であるのかは、読者の想像に任されている。だが、それがいいのである。そこまでで描き出されている「かれ」の気持ちの揺らぎとざわめきの描写があれば十分なのだ。

「カフェー」という掌編もシャレている。これは著者自身のエッセイめいた作品なのだが、浅草でたまたま見た敷島という銘柄の煙草を吸ったところ、その香りから、急に少年時代の記憶がよみがえるのである。戦時中の、近所の大人たちの記憶が静かに語られるだけの作品なのだが、読むうちに敷島という煙草を味わってみたくなるような、煙草のけむりに淡い日々の記憶が封じ込められているような作品なのだ。

多彩で多芸。外れなしの21編。吉村昭という作家の底力が感じられる一冊である。

【2064冊目】シモーヌ・ヴェイユ『工場日記』

 

工場日記 (講談社学術文庫)

工場日記 (講談社学術文庫)

 

 

パリの高等師範学校を出て、哲学教師となったヴェイユ。哲学者でもあって左翼運動の闘士でもあった彼女が、25歳のある日、とつぜん1年間の休職を願い出た。ある工場に一人の女工として「就職」したのである。

本書は、そうして飛び込んだ工場での日々の記録である。そこに展開されているのは、決してものめずらしい風景ではない。機械の部品のようになって働く労働環境も、そこで人間性が疲弊し、すり減っていくありさまも、私自身を含め、多かれ少なかれほとんどの労働者が経験していることだ。

とはいえ、そんな当たり前の光景が、ヴェイユにかかると一変する。当然だと思っていた状況が、実はきわめて非人間的であり、労働者の人間性を損なうものであるかということが、歴然と見えてくるのである。それは自分の人生の時間を文字通り「部品を1時間に600個つくる」ことに振り向けていることの意味であり、その時間がわずかな金銭に替えられていることの意味である。

「こういう生活がもたらすもっともつよい誘惑に、わたしもまた、ほとんどうちかつことができないようになった。それは、もはや考えることをしないという誘惑である。それだけが苦しまずにすむ、ただ一つの、唯一の方法なのだ」

 

これは、マルクスがいう意味での「疎外」そのものなのだろうか。そうかもしれない。が、それ以上の、人生を生きるということの本源的な意味にまで、ヴェイユの思索は届いているように思われる。

「ところで、わたしが何とかならないかと思っていることは、こういうすべてのことがどうしたら人間的になるかということよ」

 

「たましいに及ぼす隷属の影響」

 

生きるためには食べていかなければならない。そのためには働かなければならないし、機械の一部となるような環境でも耐え忍ばなければならない。たしかにそれはそのとおりなのかもしれないが、ではその無味乾燥な労働時間は、生きている時間には入らないのだろうか。ヴェイユが突きつけている問いのひとつは、まさにここにあるように思われる。

 

「生きるため」の手段としての労働も、生きている時間の一部であるはずなのに、生きることの外側におかれてしまっている。

 

ヴェイユが1年間の労働生活で直面したのは、まさにこのことであったのではないか。

「人間の生活において何より大切なことは、何年もの間―何ヵ月でも、あるいは何日間でも同じことだが―生活の上に重くのしかかってくるいろいろな出来事ではない。今の一分間が次の一分間にどんなふうにつながっているかというつながり方が大切なのである。そして、一分また一分と、このつながりを実現して行くために、―各人のからだと心とたましいにおいて、―何よりも注意力の訓練において、どれだけの努力がついやされたかが大切なことなのである」

 



日本の「哲学学者」とは違う、ホンモノの哲学者の筋金がここにある。自らの意思と経験と思索がひとつながりのものとなっている。ヴェイユの本ははじめて読んだが、これはホンモノだ。ほかの本も読んでみたい。