自治体職員の読書ノート

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【783冊目】米原万里『オリガ・モリソヴナの反語法』

オリガ・モリソヴナの反語法 (集英社文庫)

オリガ・モリソヴナの反語法 (集英社文庫)

驚くべき小説。

まず、日本人が書いた小説でありながら、スターリン統治下のソ連のすさまじい状況を圧倒的な迫力と緻密なディテールで書き切ったことに驚く。重厚なテーマを扱い、かつ文庫本で500ページ近い長さでありながら、絶妙のテンポと語り口、山盛りのユーモアとペーソスで一晩で読ませる著者の力量に驚く。しかも何と、それを書いた著者がいわゆる「専業」の小説家ではなく、元ロシア語同時通訳者であり、エッセイストであったこと、小説は本書が最初で最後だったことに驚く。

本書は1960年代、共産主義時代のプラハに始まる。主人公の志摩はプラハ・ソヴィエト学校でオリガ・モリソヴナという奇妙な舞踏教師に出会う。年齢不詳の老女だが派手で奇抜な衣装を身につけ、美しい肢体と天才的な踊りの技術、そして一風変わった「教え方」をする。なにしろ彼女が口をきわめて褒めたたえたら、それは痛烈な罵倒なのだ。タイトルの「反語法」のゆえんである。

志摩はそこで他にも個性的な教師や友人たちと出会い、それなりに楽しい学園生活を送るのだが、そこには秘密めいた影がつきまとっている。オリガ・モリソヴナをはじめとして、誰もが秘密を抱え、、それをひた隠しにして暮らしているのが分かる。そして30年後、大人になった志摩がその「秘密」を探り、オリガ・モリソヴナの謎めいた人生を追走しはじめるところから、物語は一気に転がり始める。

次々に明らかになるのは、志摩の学生時代からさらに数十年をさかのぼった時代の、スターリン統治下のソ連のおそるべき恐怖政治。嫌疑らしい嫌疑もないまま、平和な暮らしを営んでいた人々が突然拘束され、引き裂かれ、ラーゲリ強制収容所)に送り込まれる。そこはまさに生き地獄。極寒と飢え、非人間的な規則のもとでの過酷な生活。死と隣り合わせの数年間を生き延びたとしても、そこでの体験はその人の一生に悪夢を刻み、消えない傷跡を心と身体に残すのだ。本書では、物語の中に当時のことを記した手記や体験談が入れ子状に組み込まれ、小説全体を支配している。オリガ・モリソヴナの思いもかけない「謎」も、ラーゲリでの悲惨な体験としっかり結びついている。スターリンの恐怖政治というノンフィクション的な「事実」と、その中で翻弄され、場合によっては罪の意識を負いつつ、それでも懸命に生きる人々の小説的「真実」が拮抗し、重層的な物語がひとつの世界を築き上げる。

ということで結論を言うと、これはとてつもない傑作だ。解説で亀山郁夫氏が「女ドストエフスキー」とまで称賛しているが、決して言い過ぎとは思わない。これほどの骨太で、重厚で、しかも人間への賛歌に満ちた、人間の体験しうる悲劇と悲惨、意志と欲望、絶望と希望の極限を描き切った小説を、日本はほかにどれほど生みだしてきただろうか。この人の小説をこれ一つしか得られなかったことは、日本文学界の痛恨事である。