【2799冊目】篠田桃紅『その日の墨』
100歳を超えてなお現役書家として活躍し続けた著者による随筆です。ちなみに昨年3月、お亡くなりになりました。享年107歳。合掌。
この人がすごいのは、単に高齢になっても書を続けたというだけでなく、常に前衛的で、実験的な書を生み出し続けたことだと思います。その創造力とエネルギーの源がどこにあったのかが、書かれた文章からだけでも伝わってきます。
とにかくこの人には、妥協がありません。好きなモノは好き、嫌いなモノは嫌い。生涯独身を通し、どこでも着物で出かけ、あらゆる権威に背を向けた。
「とって置きの言葉」という随筆が、そうした著者のありようをよくあらわしています。
大名の末裔というF氏が、著者の水墨をみて「この人はいい墨を使っている」と言ったそうです。しかしそれは、ありふれた安い新墨で書かれたものでした。
ふつうならそこで、そのF氏をバカにしたり「あいつはわかってない」とこき下ろす人が多いのではないでしょうか。著者も最初は「安墨なのに」と言いそうになるのですが、すぐにそんな自分を反省します。
「私は、これは本当の目利き、というものかも、と思い始めていたのでした。墨いろが良い、と思ったら、いい墨だと言うのがほんとうの目利きではないかしら、と」(p.150)
とはいえ、こうした既成の価値観にとらわれない、というのは、ある意味大変なことでもあります。別の箇所で、著者はこんなふうにも書いています。
「外的な枠をとり除けば、直ちに、自由はまた遠のく。今度は自分自身の内側の制約が生まれる。
内的制約は際限がないから、外的制約よりはるかに苦しみを課すものだということも知った。自分を見据えるというこわい仕事だから、こわいから魅力的なのか、苦しんでも絶望しそうになっても、墨と筆の誘惑は続くので、三十代に手さぐりで始まったこの仕事を、どうやら今日までやって来られたと思う」(p.28)
自分の「内的制約」との戦いが、100歳を超えてもなお新たな境地を開き続けてきたのでしょう。すさまじい「生涯一書家」ぶりです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
#読書 #読了