自治体職員の読書ノート

自治体職員。仕事は福祉系。読書は雑食系。

【2697冊目】アルベール・カミュ『異邦人』




新潮文庫1002021」全冊読破キャンペーン19冊目。


大学生の頃、一度読みましたが、その時はなぜこれが文学史上に残る名作と言われるのか、あまりピンときませんでした。唐突な殺人に至る前半は退屈で、後半の法廷シーンも物足りなさを感じたのを覚えています。


今思えば、「不条理文学」という触れ込みが良くなかったのかもしれません。今回、20数年ぶりに再読して感じたのは、主人公ムルソーのもつ圧倒的なリアリティでした。そのリアリティの前では、周囲の人物,特に後半に登場する判事や検事、牧師のような人物はなんとも薄っぺらに思えるほどです。そして、そのリアリティを生み出しているのが、やはりのこと「太陽のせいで人を殺す」というムルソーの行動です。


ふつう、殺人に限らず、人間が行動するにはそれなりの「理由」が求められることが多いと思います。「なぜ仕事を辞めたの?」「なぜあの人と結婚したの?」「なぜお酒を飲んで車を運転したの?」といった「なぜ」で始まる質問は、そこに何らかの「答え」があることを前提としています。


でも、人間は実際のところ、そんなにひとつひとつの行動に「理由」があるものなんでしょうか。実際には、多くの行動が「なんとなく」「特に理由もなく」なされているように思います。周囲が理由を求めるから、わたしたちは後付けで理由をこさえているだけなのではないでしょうか。


ムルソーが(つまり、カミュが)衝いたのはその点でした。「太陽のせいで人を殺した」とは、ほとんど「何も理由がなく人を殺した」と同じことです(「太陽」は、まさに後付けの理由です)。それが実際は「本当のところ」なのです。でも、それは周囲の「みんな」が許さない。社会が許容しない。なぜなら、そんな人がいると不安になるからです。行動には理由がある、という暗黙の前提をゆるがすような発言は、許容してはいけないのです。「ムルソーの罪は父殺しより重い」といった趣旨のことを検察官が言いますが、それはまさにそういうことなのです。


だからムルソーは、社会にとっての「異邦人(エトランゼ)」にならざるを得なかった。いや、寄ってたかって、そうさせられてしまったのです。「母の死に際して泣かなかった」ことと「太陽のせいで人を殺した」ことが、法廷では結びつけて語られます。それは、「社会の常識や慣習を逸脱した」という罪なのです。そして、そうした罪こそがもっとも恐れられ、厳罰に処せられる(ムルソーは斬首刑になります)。それはいわば、この社会の異邦人であることの罪なのです。そのことを、カミュはおそらくはじめて明らかにしたのです。だからこそ、この小説は歴史に残る名作なのだと思います。


最後までお読みいただき、ありがとうございました!