【2548冊目】真魚八重子『バッドエンドの誘惑』
う〜ん。残念ながら、私にはちょっと合わなかった。タイトルはけっこうツボだったんだけどねえ。
「イヤミス」ならぬ「イヤ映画」という切り口で映画を紹介するという着眼点は悪くないと思う。ただ、この手の本としては町山智浩『トラウマ映画館』という決定版があるのだから、同じようなテーマで本を書くなら相当の覚悟が必要だ。だが残念ながら、本書は映画のセレクションも内容の紹介も、『トラウマ映画館』に遠く及ばない。総じて言えば、本書を読んでいても「こんな映画があったのか!」という驚きが感じられない。
ということで、本書自体について書くことはあまりないので、ここからは「ないものねだり」。
映画のみならず、小説にせよ戯曲にせよ「バッドエンド」はつきものだし、悲劇というジャンル自体がバッドエンドそのものだ。「なぜ人は厭な映画を観たいと思うのか」と問うのであれば、そもそも、なぜ古代ギリシアの昔から悲劇の名作が生み出され続け、人はバッドエンドに魅せられ続けるのか、というところから考える必要があるだろう。ソフォクレスの『オイディプス王』やシェイクスピアの四大悲劇、あるいは日本であれば近松の心中ものなど、映画の枠にとらわれず、もっと深いところから掘り起こさないと、その本質は見えてこないように思われる。
そこに思いが至れば、ラース・フォン・トリアーやミヒャエル・ハネケに対しても、もう少し違った解釈ができるのではないか(本書ではこの2人については「イヤな映画を撮ってやれ」という作為が感じられるということで除外されている)。あと、最近は小説でも「イヤミス」が人気だが、これってどういうことなのか。怪談ブームとかゾンビものとはどう違うのか。ノンフィクションでも事件実録ものがいろいろあるが、それとの関係はどうなのか(『凶悪』とか『冷たい熱帯魚』などは実際の事件が元ネタのバッドエンド映画だ)。等々、「バッドエンド」って、いろいろ深掘りもできれば広げることもできる面白いテーマだと思うんだが。映画だけの話にしてしまってはもったいないし、それなら『トラウマ映画館』のように、映画の話だけで最後まで読ませる「力」がほしかった。