自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2526冊目】東畑開人『居るのはつらいよ』

 

 

 

エッセイ風のおどけた語り口。だが、その内容はなかなかに深遠だ。なにしろこの本は、ケアとセラピーの違い、ケアの本質を、沖縄の精神科デイケアの日々からざっくりとつかみだす一冊なのだ。

 

臨床心理学を学び、博士号まで取った。セラピーを仕事にしたいが、就職先がない。そんな「京大ハカセ」がたどり着いたのは、「カウンセリング7割、デイケア2割、雑務1割」を謳う、沖縄にある精神科デイケアだった。ところが行ってみると、現実は「カウンセリング7割、デイケア10割、あわせて17割」だったことがわかるのである。

 

その「デイケア」が本書の舞台。著者がそこで最初に言われたコトバが「とりあえず座っといて」だったという。だが、この「とりあえず座っておく」ことが、実はたいへんんな難題なのだ。そのことを著者は、いきなり身をもって思い知らされる。初めて来た場所で名前も知らない利用者(メンバー)と一緒に「ただ座っている」のはツライ。

 

著者が学んできた「セラピー」との落差も大きい。セラピーは基本的に、何かを「する」こと、相手に働きかけ、相手を変えることを目指すものだ。それに対して、著者が発見した「ケア」では、利用者が「そこにいる」ことが大事なのだ。「居場所があること」と言ってもいい。そこにいていいという場所、安心していられる場所があること自体が、実はケアのベースになってくるのである。もちろんいろいろな「活動」はある。だが、それもまた、「居る」ことの一部であり、そのための仕掛けであった。バレーボールもクリスマス会も、それ自体に何か目的があるというより、それがあること、そのスポーツなりイベントの中にみんなが「いる」ことに意味があるのである。

 

もっとも、著者は「セラピー」と「ケア」を二項対立として捉えているわけではない。著者は、セラピーとケアは「糖分と塩分」のような「成分」であると言う。デイケアにもセラピー的な要素はあるし、セラピーにだってケア的な要素が混じっている。どんな場所だって、そこに「居る」ことも大事だし、そこで何かを「する」ことも大切なのだ。それは人間関係全般に通じることでもある。

 

「ケアとセラピーは人間関係の二つの成分です。傷つけないか、傷つきと向き合うか。依存か自立か。ニーズを満たすか、ニーズを変更するか。人とつきあうって、そういう葛藤を生きて、その都度その都度、判断することだと思うわけです。だって、人間関係って、いつだって実際のところはよくわからないじゃないですか。だから、臨床の極意とは「ケースバイケース」をちゃんと生きることなんです」(p.278)

 

 

さらっと「臨床の極意」なんて書いてあるが、これは本当に大事なことだと思う。セラピストもケアワーカーも含めて、対人援助に関わる人すべてが味わうべき一節であろう。

 

さて、だったらそんなデイケアはすばらしい、「居るだけ」の場だってすばらしい、ということになりそうなものだが、実は本書の凄みは、さらに一歩進んで「デイケアのダークサイド」にしっかり触れていることである。

 

そもそも、デイケアのような「場」が成り立つのは、そこにお金が降りる仕組みがあるからだ。それが診療報酬か介護報酬か自立支援給付かはともかく、経済的にその場を支えるシステムが存在するからだ。でなければ、職員の給料も部屋の家賃も支払えない。

 

それ自体はある種当たり前のことなのだが、怖いのは、これが「収益のためにケアをする」という論理になった時である。そこが「効率性」とか「コストパフォーマンス」といった、著者のいう「会計の光」に照らされたとき、何が起きるか。それを著者は「アジールからアサイラムへの頽落」と表現する。アジールとは避難所、アサイラムとは「管理された施設」のこと。世の中での生きづらさを背負った人々が逃げ込んで居場所を見つけるためのアジールであったはずのデイケアが、そこに通うことを強制される施設と化してしまうのである。

 

そんなアサイラム化したケアの現場に、何が生まれるか。利用者が収益源となり、そこで働く人が使い捨てにされるとき、何が起きるのか。著者は次のように書く。

 

「ケアはいつでもニヒリズムに脅かされている。その最奥にある「ただ、いる、だけ」は「それでいいのか」と問う会計の声にさらされ、その光を照射されるときに、傷ついてしまう。それに持ちこたえられないときに、ケアからニヒリズムが生じる。

 その極北に「津久井やまゆり園事件」がある。知的障害者の施設で元職員が入所者を大量殺人した事件だ。その元職員は入所者を「心失者」と呼び、安楽死させることが会計的な意味での社会正義だと考えていた。彼はケアすることのなかに含まれるニヒリズムに食い破られたのだ。このニヒリズムの極致で「いる」は否定される」(p.326)

 

 

この指摘は当たっていると思う。少なくとも、今まで私が読んだ事件の分析や考察の中で、もっとも本質を突いていると感じる。実際にケアに携わる人なら、多かれ少なかれ同じように感じてくださるのではないだろうか。