自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【2451冊目】アンドレ・ルロワ=グーラン『世界の根源』

 

世界の根源 (ちくま学芸文庫)

世界の根源 (ちくま学芸文庫)

 

 

だいぶ前に読んだ『身ぶりと言葉』は、すごいことが書かれているのはなんとなくわかるのだが、なかなか入っていけなかった。ところが、本書は美術史家クロード・アンリ・ロケのナビゲーションによってルロワ=グーランの凄みが十全に引き出されており、どっぷりハマって読むことができた。この読後感のまま、『身ぶりと言葉』も再読してみたい。

 

ルロワ=グーランは先史学者である。人類にとっての「歴史」と「歴史以前」を文字の出現によって分けるとすれば、ルロワ=グーランの専門領域は、人類誕生後から現在までの期間のうち、圧倒的大部分を占める、文字なき歴史以前の領域だ。その時代を読み解くにあたり、著者が行う試みのひとつが、洞窟などの壁面に描かれた絵画=壁画の解読である。

 

例えば、ルロワ=グーランはラスコー洞窟の壁画にトナカイの像が「見られない」ことに着目する。なぜバイソン(本書では「ビソン」)や熊が描かれているのに、同じく生息していたはずのトナカイは描かれないのか。「日々の糧と見なされていたために、芸術的な構図のうちにその姿を描こうとしなかった」のか。あるいは「主たる神的存在であったがゆえに、秘密にしておいた」のか……。明確な答えは示されない。だが、さまざまな思索を巡らせるうちに、著者は古代人の精神の深層をいつの間にか辿っている。

 

あるいは、同じラスコー洞窟に描かれた、バイソンに斃されたらしき男の壁画。ルロワ=グーランはその絵が「過去と現在と未来」を併せ持つものだと指摘する(まるでゴーギャンだ)。バイソンの動き自体において「男がまだ倒れていなかった≪前≫と、動作が進行しつつあった≪途中≫、それに動作が完了した≪後≫とを示しているのです」(p.112)。そこにはやはり、先史人の思考が読み取れる。「言葉によって表現された思考の発達度は、手によって表現された思考作品の数々を通して測りえるのです」(p.115)

 

しかし、なぜルロワ=グーランはそれほどに、先史時代の人々の思考にこだわるのか。「先史学はいったい何の役に立つのでしょうか?」という質問に、ルロワ=グーランはこう答えている。

「過去の人間のことが分からなければ、未来の人間のことも理解できないからです。人類のうちに可能性や潜在的な力としてあるもの全てをその根底から把握すれば、最終的な発達段階まで安んじて辿れるのでは、と考えています」(p.306)

 

実際、本書には人類の「未来」に関する様々な考察がちりばめられている。例えば、人口増加と飢餓について。原子力発電について。あるいはエコロジーについて。驚かされたのは、ルロワ=グーランが、未来の尺度を数百年、あるいは数千年の単位ではなく、数万年という物差しで考えていることだ。だが、確かに人類の「(書かれた)歴史」は数千年程度かもしれないが、先史時代まで含めれば、人類の時代は数万年(あるいはそれ以上)の単位で測るべきなのである。

 

ところで本書は、ルロワ=グーランの波乱万丈の半生をもしっかりと聞き出している。意外だったのは、ルロワ=グーランが第1回日仏交換留学生として、戦前の日本で研究生活を送っていたことだ。京都について(東京については「耐え難い都市」とバッサリ)、禅について、能についても書かれているが、なんといっても日本滞在によって技術論に開眼したというのが面白い。陶芸家の河井寛次郎とも交流があったというが、その中でルロワ=グーランは「オブジェに対する具体的なアプローチや実作業、工師の考え方などといったことは、実は訪日を契機として私の中にしっかりした形をとるようになったのです」(p.87)と言っている。言うまでもなく技術論は、壁画の解読と並んで先史時代を読み解く大きなカギとなる。ルロワ=グーランがそのヒントを日本から得ていたとすれば、なんとも嬉しい限りではないだろうか。

 

 

身ぶりと言葉 (ちくま学芸文庫)

身ぶりと言葉 (ちくま学芸文庫)