【2370冊目】高村光太郎『智恵子抄』
高村光太郎は嫌いじゃないが、智恵子抄は読まず嫌いだった。こんなもの、身勝手な男の一方的な感情の吐露だと思っていた。自分の芸術のためにもうひとつの稀有な才能を押し込め、智恵子自身も夫への献身と自らの芸術の間で引き裂かれ、それゆえに智恵子は発病に至ったのだ。もっとも痛ましいのは、智恵子が光太郎に強制されてそうした道を選んだのではなく、自ら選び、それゆえに追い込まれていったことだ。
だから光太郎の智恵子への愛など、エゴイストの愛だと思っていた。実際、この詩集を読んでいると、ちらほらと、自己の所有物然と智恵子を眺める視線を感じることがある。だがそれでも、やはりこの作品は、胸を打つ。智恵子を想うまっすぐな心情が、ストレートに読み手に届く。詩というもののもつ底力のようなものを、この本からは感じた。中でも胸打たれた作品をひとつ選ぶなら、智恵子の死後に書かれた「レモン哀歌」。宮澤賢治の「永訣の朝」に匹敵する絶歌である。やはり「読まず嫌い」は、するものではない。
レモン哀歌
そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白くあかるい死の床で
わたしの手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉 に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓 でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関はそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう