【2146冊目】清水潔『「南京事件」を調査せよ』
この本には、2つの疑問に対する答えが書かれている。
ひとつは「南京事件とは何だったのか」。
もうひとつは「南京事件を「なかった」と主張する人がいるのは、なぜなのか」。
南京事件が厄介なのは、「何が本当なのか非常にわかりにくい」点だ。真偽の疑わしい資料が膨大に存在し、それゆえに「南京事件はなかった」という主張も出てくる。「資料が疑わしい」ことと「事件自体がなかった」ことは論理的にまったく整合しないのだが、なぜかこういう論法がこのテーマではまかり通っているのである。
そこで著者が立脚するのは、ジャーナリストの基本、一次資料だ。戦後に作成されたものではなく、戦争中につけられた日記、確度が高い写真、そして証言。とはいえ、77年前の事件であるから、証言を取るにも限界がある。本書が書かれたのは、まさにそのギリギリのタイミングだった。
そこから明らかになってくるのは、まぎれもなく南京における大虐殺が「存在した」ことだ。数多くの日記を符合させる中であぶりだされてくるその実相は、おぞましいの一言。だが、日本人はこのことを知らなければならない。責任を負うかどうか、謝罪すべきかどうかを論じる以前に、少なくとも史実として認識しなければならない。それは日本人としての責務であろう。
そして、本書でこのことと同じくらいのウェイトを割いて論じているのが、冒頭にあげたもうひとつの論点「なぜ、南京事件を否定したがる人が(たくさん)存在するのか」ということだ。
一般的に、「なかった」ことを証明するのは、「あった」ことを証明するより数段むずかしい。記録にはわざわざ「なかった」ことは書き残さないし、証人が「なかった」と言っても、それは「知らなかった」「見ていなかった」だけかもしれない。
いや、そもそも「なかった」と言い切る人がいること自体が不思議なのである。本当に知らなければ、「なかった」と断言することはかえって難しい。自分が知らなかっただけではないか、観なかっただけではないか、という疑問がよぎるはずだからだ。だから本書で証言している元海軍兵士は、このように言うのである。
「『なかった』と言うのは、本当は、あったことを知っているのだと思います。知っていて、それでも『なかったことにしたい人』が言っているんじゃないかと思います」(p.203)
歴史の闇の深さを感じながらも、そこに一筋の光を投げかけた力作。