【2093冊目】世阿弥『風姿花伝・三道』
読んでおいてこういうことを言うのも何だけれど、果たしてこの本は表に出るべきだったのだろうか。
秘伝なのだ。「秘すれば花なり」であって、「一切の事、諸道芸において、その家々に秘事と申すは、秘するによりて大用あるがゆゑなり」なのである。観客には花ということを知らせずに演じてこそ、そこに花を感じ、心が震えるのだ。本書はあえて、そんな能舞台の裏側を、言葉によってえぐり出すように明らかにした一冊である。
では、本書は能楽に興味のない人にとっては縁なき書物なのかといえば、それがそうでもないのだ。芸能、あるいは芸術文化全般に通じる内容を、この本は持っている。しかもその、言葉になるかならないかのギリギリのところを、言葉に落とし込んでいるのがスゴイ。
例えば、能でもピアノでもコンテンポラリー・ダンスでも何でもいいけれど、若くしてデビューして「大型新人」「天才的才能」ともてはやされる10代や20代のアーティストがよくいる。メディアも持ち上げるし、コンサートを開けばいつも大入り満員となると、本人も調子に乗って名人気取り。だが、世阿弥はこれを「当座の花」にすぎないとして戒める。それは物珍しさに手助けされたその場限りの魅力にすぎず、「まことの花にはあらず」と言い切るのである。
「たとひ、人も褒め、名人などに勝つとも、これは一旦めづらしき花なりと思ひ悟りて、いよいよ物まねをも直にし定め、名を得たらん人に事を細かに問ひて、稽古をいや増しにすべし。されば、時分の花をまことの花と知る心が、真実の花になほ遠ざかる心なり。ただ、人ごとに、この時分の花に迷ひて、やがて花の失するをも知らず。初心と申すはこの頃の事なり」
要するに、若くしてもてはやされたとしても調子に乗るな、ということなのだが、ここでいう「初心」が、後の「初心忘れるべからず」にもつながってくる。この有名なことわざが世阿弥に由来するのは有名な話だが(本書にも出てくるが、主に扱われているのは『花鏡』)、その本来の意味は、未熟にも関わらず調子に乗るような若い頃の驕慢を忘れるな、ということなのだ(実際はこのほか「時々の初心」「老後の初心」も含めての「初心忘れるべからず」なのだが、説明が長くなるので省略する)。
他にも印象に残るフレーズが本書は目白押しなのだが、もうひとつ汎用性が高そうなものを挙げれば「上手は下手の手本、下手は上手の手本」だろうか。意味は読んでのとおりだが、これもまた、驕慢を戒める言葉であろう。常に謙虚さを忘れず、どんな人からも学びを得る。これは芸道だけでなく、仕事や学業、さらには人生そのものの真理ではなかろうか。