【1942冊目】江國香織『やわらかなレタス』
食べものをめぐる珠玉のエッセイ集。さりげなく、たおやかで、率直で、てらいがなく、ユーモラス。文章自体にやわらかな味わいがあって、いつまででも読んでいたくなる。
懐かしい食べ物の味や香り、あるいはちょっとした感覚のひっかかりから、急激に過去の記憶がよみがえることがある。プルーストの「紅茶にひたしたプチット・マドレーヌ」ではないが、味覚や嗅覚、触覚といった感覚は、どこか野生に近いものを残しているのか、わたしたちの「原記憶」のようなところに、ふしぎな回路でつながっているのかもしれない。
著者にとってそれは、例えば、耳に入ってしまった水がとろりと出てくる時の感覚だったようだ(「外は雨」)。それは夏の記憶だった。小学校のプール。祖父母宅の近くの、三保の松原の海岸。どこなのか判然としないあちこちの海。キャラメルと車酔い。それらが「ほとんどひとかたまりにからまりあって、暑さや光や匂いや音ごとよみがえってきた」のだという。
そして、私自身、この本を読んでいて同じような体験をした。それは、昭和の時代は砂糖をたくさん使っていた、という話の中の、以下のひとくさりを読んだ瞬間に、押し寄せてきた。
「グレープフルーツというのは半分に切って、スプーンですくいやすいように果肉の周囲(および何等分かの放射状)にナイフを入れ、たっぷりのお砂糖をかけてたべるものだと思っていたし、いちごには、お砂糖と牛乳をかけて(いちごをつぶして牛乳をピンク色にしてから)たべるものだと思っていた。そのようにしてたべるために、グレープフルーツ用の、先がぎざぎざになったスプーンというものがあったし、いちご用の、底が平らになったスプーン(多くのものは、いちごの模様が型押しされていた)もあった」(「昭和のお砂糖」)
そうそう、私が子どもの頃も同じだった。私の場合、グレープフルーツは決まって茶色の皿に入って出てきたし、食べ終わった後の残骸はぎゅっと絞って「グレープフルーツジュース」にしてすするように飲むのが好きだった。イチゴはころころ逃げてしまうのでつぶすのはけっこう難しく、牛乳ごとひっくり返して怒られたこともあった。
それだけではない。そこには一つ下の妹がいて、父親も同じテーブルでグレープフルーツを食べていた(イチゴのほうは、なぜか一人で食べているイメージがある)。その向こうのテレビに映っているのは「ドラえもん」だろうか。急いで食べているのは、食べ終わったらみんなで花火をする約束になっていたからだろうか。その頃使っていたテーブルの色。砂糖をかけたグレープフルーツの甘酸っぱい味。いちごの数を妹と比べて取り合いをしていたこと。記憶の蓋がひらいてとまらない。
本に出てきた「おいしそうな食べ物」が気になるというのもよくわかる。『大きな森の小さな家』に出てくるバターミルク。童話『りこうすぎた王子』で王子が持っている「厚切りのパンとつめたい牛タン」。そして本書のタイトルにもなっている「やわらかなレタス」は、『ピーターラビットのおはなし』から……と思ったら、実はこれにはオチがあって、「やわらかいレタス」という言葉はこの物語には出てこないらしい。
それは「うさぎになりきってしまった私が、心のなかで上げた感嘆の言葉だったのだ」というのである。ピーター・ラビットになりきって本に顔を埋めている、子どもの頃の江國香織が浮かんでくるではないか。なんとも極上の結末、極上の一篇であった。
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