【1935冊目】三浦佑之『古事記講義』
『日本書紀』と対比しつつ、『古事記』の本質をあぶり出していく名講義。全体を追うのではなく、ポイントを絞って比較しながら、そこから全体像が立ち上がってくるように書かれている。
『日本書紀』と『古事記』の違いはどこにあるか。『日本書紀』が古代日本の正史だとすれば、『古事記」はそこに至る「数多くの中間報告書のうちの一つ」として位置づけられる。もうすこし敷衍して言えば『日本書紀』は国家のために書かれた。その記述はすべて国家の成り立ちに目が向いており、異質な要素は注意深く切り払われている。さらにひらたく言えば、「余計なこと」は書かれていない。
ここで着目すべきは、『日本書紀』が基本的には「書かれた」ものであるのに対して、『古事記』はその成り立ちを辿れば、そもそもは「語られた」ものである、ということだ。著者によれば、「文字の論理」とは「世界を一つに統合しようと」することである。『日本書紀』でいえば、それは国家の論理に世界像を揃えるということだ。それに対して「語りの論理」とは「世界の多様性を抱え込む」ものである。異質なもの、例外的なものを、書き言葉は排除しようとするが、話し言葉はむしろ包摂しようとする。
そのことが典型的にあらわれているのが、英雄伝説である。英雄は、国を生み出す原動力になることもあるが、同時に「存在そのものが国家あるいは共同体の秩序を揺るがす力になってしまう」存在である。つまり秩序からの逸脱こそが、英雄の最大の特徴といえる。
『日本書紀』はあくまで「国家目線」なので、こうした特徴はできるだけ黙殺される。なかったことにされる、といってもよい。ところが『古事記』では、このような「王権を逸脱する者」にこそ光が当てられる。著者によれば、それは『古事記』の語り手自身が「王権の外にいる」からなのだ。それは「王権の外側に位置した、あるいは王権と外部との狭間に位置した語り部」なのである。
同じことは「出雲神話」の扱いについても言える。『古事記』ではけっこうな分量を占める「出雲神話」が、『日本書紀』では全然出てこない。イナバノシロウサギも、オホナムヂとスサノヲとの対面も触れられてさえいないのだ。それもまた、中央国家中心の『日本書紀』の関心が国家そのものに向いているのに対して、『古事記』のほうは、多様な世界の中に「出雲国家」を抱え込んでしまう、ということなのだろう。
ちなみに、『日本書紀』のウラにあるのが『古事記』だとすれば、さらにそのウラにあるのが、『出雲国風土記』のような風土記である。歴史とはそのように、正史のみによって成るものではなく、重層的で多様なものなのだろう。