自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1905冊目】須賀敦子『霧のむこうに住みたい』

 

霧のむこうに住みたい (河出文庫)
 

 

う~ん、この独特の空気感、静かだけどどこか遠くで音が鳴っているようなこの感じをどう表現すればよいのやら……と思っていたら、解説で江國香織が「雨が降っている気分」と表現していて、思わず膝を打った。そうそう、そうなのだ。雨の日、それも霧雨のようなしっとりした雨の気配を外に感じるのだ。

「雨の日の、閉じ込められる感じとうす暗さ、物がみな境界線を曖昧にし、植物や家や家具といった、普段言葉を持たないものたちが俄然生気を帯びるあのひそやかさ。書物の内側と外側、は、雨の日にはほとんど地続きになる。ある種の書物を繙くことは、雨の日を繙くことだ」

こんなふうに書かれてしまうと、もはや、なにも付け加えることはない。江國香織の解説に、まずは脱帽しておきたい。

そしてもちろん本編も、とにかくすばらしいエッセイ集なのだ。ゆったりと歩くようで、いっさいの無駄がない。わかりやすく的確な描写なのに、余韻が深い。まったく下卑たところがないのに、気取っているふうもない。いったいこういう文章が、どうして書けるのか。

と思っていたら、「となり町の山車のように」というエッセイで、著者はこんなふうに書いていた。若い頃のことを思い返しているのだが、これが言い換えれば、「いまの須賀敦子」が身につけたものなのだ。

「「時間」、とあのころ言葉の意味を深く考えることもなしに呼んでいたものが「記憶」と変換可能かもしれないとまでは、まだ考えついていなかった。思考、あるいは五官が感じていたことを、「線路に沿って」ひとまとめの文章につくりあげるまでには、地道な手習いが必要なことも、暗闇をいくつも通りぬけ、記憶の原石を絶望的なほどくりかえし磨きあげることで、燦々と光を放つものに仕立てあげなければならないことも、まだわからないで、わたしはあせってばかりいた」

もう、ため息しか出ない。本書に収められているエッセイ一篇を仕立てるのに、どれほどの「手習い」と「練磨」が必要であったか、想像を絶するものがある。

さらにこの人は、文章のすばらしさに加えて、「目の確かさ」をもっている。それはギンスブルクやタブッキのような文芸作品にも向けられれば、ミラノのドゥオモの脇に生えている木や、フィレンツェの裏通りの家具工房にも向けられる。上から見た「観光地」ではなく、足で歩く人だけが見ることのできる、活きた風景。その「ゆっくりさ加減」が、文章のテンポにも生きてくる。

フィレンツェがつくられたころ、人々はゆっくり考えてものをつくっていたということを、忘れないほうが、いいのではないか」

このように書く須賀敦子という人も「ゆっくり考えてものをつくる」人だったのだ。文章という「もの」を。そんなことを、この本からは、じんわりと感じることができた。