【1895冊目】須賀敦子『ユルスナールの靴』
「きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。そう心のどこかで思いつづけ、完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、私はこれまで生きてきたような気がする。行きたいところ、行くべきところぜんぶにじぶんが行っていないのは、あるいは行くのをあきらめたのは、すべて、じぶんの足にぴったりな靴をもたなかったせいなのだ、と」
本書の冒頭、この段落ひとつを読むだけで、一挙に心をつかまれた。3回ため息をつき、2回空を見上げ、5回は自分の越し方をふりかえった。ああ、そういうことだったのか。私はこれまで何回くらい、自分の怠惰を靴のせいにしてきたことか。
しかも、本書がすばらしいのはここからだ。著者は、ここから一気に教訓めいた話に行くのではなく、著者自身の過去をゆっくりと振りかえる。子どもの頃の下駄の記憶。浅くてぺたんこのゴム靴に、よそゆきの黒いエナメル靴。シスターたちが履いていたかっこいい黒の革靴、父が買ってくれたオーストラリア製のヒールがすぐ盗まれてしまったこと、母との街歩きの途中で見た、きれいな赤いサンダルが欲しかったこと。
そして、ここに重なってくるのが、著者の敬愛する作家マルグリッド・ユルスナールのことである。重なってはいるものの、文章の見通しがよいので、その向こうに著者自身のことが透けて見える。例えば、こんなくだり。ここではユルスナールに加えて、ユルスナールが描いたハドリアヌス帝が重なり合っている。
「ハドリアヌスは、現在の私より若い、六十二歳で他界している。死期の近いのを悟った皇帝の述懐のかたちでこの作品をまとめたユルスナール自身は、八十四歳まで生きた。じぶんに残された時間はいったいどれほどなのだろうか」(p.149)
人が生きるということ。女性が生きるということ。一人で生きるということ。書きながら生きるということ。すべてがゆるやかな川の流れに溶け込んで、するすると流れていくような文章がすばらしい。言葉と言葉のあいだに空気の粒がぷつぷつと入り、そこに光があたるときらきら輝くような。
気になったのは、ユルスナールとピラネージ。だがなにより、今回はじめて読んだ、著者の他の本が気になる。前からずっと気になっていたのに、なんで今まで読まなかったんだろう、須賀敦子。