自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1883冊目】フランセス・A・イエイツ『記憶術』

 

記憶術

記憶術

 

  
21世紀の日本では、記憶術といえば、せいぜい試験前の暗記対策やスピーチのための準備に使われるくらいだろう(それさえも最近はプロンプターという便利なモノがある)。「覚える必要はない。どこに載っているかを知っていればよい」と言われるのはまだ良い方で、「ググる」ことさえできればほとんどの調べものが終わってしまう。われわれは膨大なネットの海から必要な情報を引っ張ってくればよいのであって、頭の中に情報をとどめておく必要などないのである(一応は、ね)。
 
しかし、かつてはそうではなかった。特に印刷術が発明される以前は、必要な情報は聞いて(あるいは、手書きで写された貴重な書物を読んで)覚えるしかなかったのだ。そこに「記憶術」をめぐる絢爛たる歴史の幕が開いた。しかもそれは、単なる暗記のノウハウではなかった。記憶術はルネサンスの隠秘哲学と結びつき、歴史の裏側を流れる巨大なストリームを形成したのである。本書は古代ギリシアからルネサンスを経て近代哲学に至るまでの秘められた歴史を辿り直し、ヨーロッパの「もうひとつの観念史」を浮き彫りにした一冊だ。
 
記憶術の基本は、「場」と「イメージ」を駆使する方法だった。伝説によれば、ケオスのシモニデスは、祝宴の席に座っていた人々が屋根の崩落で圧死した際に難を逃れたが、誰がどこに座っていたかを覚えていたため、どの遺体が誰のものかを親族に教えることができたという。ここから、一定の場所を選定し、記憶したい事柄を意味するイメージをそれぞれの場に配当することで「場の秩序が事柄の秩序を維持し、事柄のイメージが事柄そのものをあらわす」という記憶術が生み出された(ということになっている)。
 
こうした記憶術は、まずギリシアやローマの雄弁術に活用された。キケロクインティリアヌス、さらには著者不明の『ヘレンニウスへ』という書物が、その重要性を後世に伝えた。ちょっと面白いのは、文字を学ぶことでかえって記憶力の訓練がなおざりになると、プラトンが主張しているということだ。プラトンによれば、文字があることで人は「自分で自分の力によって内から思い出すこと」をしなくなるし、そうした文字だけによって得られた知恵というのは「知恵の外見であって、真実の知恵ではない」ため、「多くの場合ほんとうは何も知らないでいながら、見かけだけはひじょうな博識家と思われるようになるだろうし、また知者となる代りに知者であるといううぬぼれだけが発達するため、つき合いにくい人間となる」のだという。思い当たるフシがありすぎて耳が痛い。
 
著者はさらに、スケプシスのメトロドロス、「トゥリウス」にトマス・アクィナス、ジュリオ・カミッロ、ライムンドゥス・ルルス(本書では「ラモン・ルル」)にジョルダーノ・ブルーノと、観念の歴史をめぐる一連の系譜を次々にたぐっていく。中でも重要なのは、ジュリオ・カミッロの「劇場」と、ジョルダーノ・ブルーノのイメージ記憶術だろう。ここでは記憶術の舞台となる「場」や「イメージ」は、それそのものが世界模型なのである。
 
たとえばカミッロの劇場は、7段の上り勾配が設けられ、それが7つの通路で貫かれている。通路の上には7つの門あるいは扉があり、この門はさまざまな像(イメージ)で飾られている。この「7」という数字は、7つの惑星(月、水星、金星、太陽、火星、木星土星)に対応しており、それぞれの惑星はカバラユダヤ神秘主義思想)における「生命の樹」セフィロトの各要素に、さらにはガブリエルやミカエル、ラファエルなどの天使とも対応しているのだ。
 
これはまったくとんでもないシロモノである。この劇場は、ルネサンスの新プラトン哲学、とりわけマウシリオ・フィチーノやピコ・デッラ・ミランドラによる魔術的世界観が具現化したものなのだ。ここには魔術、カバラヘルメス主義といったルネサンス思想の精髄が渦巻いているのである。中でも、フィチーノによる「星のイメージ」を媒介とした天上界のイデアと地上世界の関係は、みごとにこの劇場に投影されている。
 
同様の世界観を、さらに凝った形で記憶術として完成させたのがジョルダーノ・ブルーノであった。ブルーノはカミッロのような「場」ではなく、主としてイメージによる記憶術を形成した。ブルーノが依拠するルネサンス的世界観では、イメージは単なる個人の観念ではなく、天上界と地上をつなぐ重要な要素であるとされていた。「真実の世界」である天上界は、星の「イメージ」を通じて地上に投影されているというのである。ということは、われわれは星のイメージを配列し、操作し、用いることで、下界の事物に影響を与えることができることになる。
 
こうした系譜のひとつの到達点となったのが、ロバート・フラッドの劇場記憶術体系であった。フラッドはこれらのイメージや場をめぐる記憶術を「円形」と「方形」の2つに分け、劇場においてそれらを統合してみせた。それがフラッドの「世界劇場」だった。ここでは天井に円形の天体図が配置され、劇場は方形で、そこには5つの記憶の場として用いられる5つのドアが備えられていた。

 

そして、このフラッドの劇場が、シェイクスピアの「グローブ座」となっていく。まさに劇場とは、それそのものが「世界」であったのだ。記憶のための「場」とは、それ自体が世界であって、記憶のためのイメージとは、それそのものが、真実の世界への通路であった。それこそが、著者が本書を通じて明らかにしようとした「記憶と世界の関係」であったのではなかろうか。