自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1850冊目】グスタフ・ルネ・ホッケ『迷宮としての世界』

 

迷宮としての世界(上)――マニエリスム美術 (岩波文庫)

迷宮としての世界(上)――マニエリスム美術 (岩波文庫)

 

 

迷宮としての世界(下)――マニエリスム美術 (岩波文庫)

迷宮としての世界(下)――マニエリスム美術 (岩波文庫)

 

 

この本は3度ほど挫折した。読んでいて挫折する本は少なくないが、挫折した本を、3度まで手に取ろうと思うことはめずらしい。で、今回はどうにか最後まで読み切ったワケなのだが、これは、挫折せずに通読できた、というよりは、挫折したまま、それでもどうにかこうにか、ゴールラインまでたどり着いたというのに近い。

長らく絶版だったのが、岩波文庫の上下巻で再登場したのを本屋の平積みで見つけた時、すでにそこには異様なオーラが漂っていた。周囲の似たようなデザインの本の中でも、この2冊だけはタダものではない、という感じがあった。事前にこの本の存在は知っていたにせよ、である。そのオーラは、我が家の本棚に収まっている時も消えることはなかった。だからこそ、読み始めれば挫折するのはわかっていても、手に取らないではいられなかったのだ。

今回、最後まで読めたのは、読み方を変えたからだった。すべてを理解しようと思わず、挿絵と文章を対応させつつ、綱渡りのように文脈を辿っていくようにした。だから結局、途中の説明は理解が及ばない部分のほうが多かったかもしれないのだが、それでもとりあえず、マニエリスムの「香り」だけはふんだんに浴びることができた。そして、本書の最大の魅力はまさにそこにあるのだから、私は「挫折しながらも本書を読めた」と言うことができるのだ。

さて、ここからは私なりの「一知半解マニエリスム」になるのだが、そもそもマニエリスムとはどういうものなのだろうか。一般的な文化芸術史では、マニエリスムルネサンスバロックの間、時代でいえば後期ルネサンス期の作風をいうが、本書におけるマニエリスムの射程はそれより広く、ダリやピカソなども取り上げられている。たしかにマニエリスムは一定の時代に集中的にあらわれているが、だからといってある時代特有の概念ではないのである。

ブルーノ・トマスは、マニエリスムについて「奇妙さ、珍しさ、荒唐無稽、異常なもの、鬼面人をおどかすもの、気味悪いもの、衒奇的で怪物じみたもの、嫌悪をそそるような風変りなもの」(下巻P.93-94)と言ったという。だが、マニエリストたちは、奇をてらうこと自体を目的として、そのような表現形式を採ったわけではない。

逆なのだ。トマスの言うマニエリスムの特徴は、実は世界そのものにひそむ目に見えない本質であり、プラトンのいうイデアなのである。マニエリスムとは、そのような世界の本質を捉えるための「手法」なのである(そもそもマニエリスムはイタリア語のマニエラ(手法、方法)に由来する言葉である)。世界のありようが先行していて、手法がそれに合わせた、ということなのだ。

本書はいわば、そのような「世界把握の手法」のカタログと実例集である。それは蛇状の曲線であり、凸レンズであり、隠喩であり、擬人化であり、夢の表現であり、両性具有であり、「かけはなれたものをたがいに結びつけること」(上巻P.228)である。

そして、そのようにして世界を捉える手法を得意としたのが、魔術であり、ネオプラトニズムであり、神秘主義であった。目に見える世界は目に見えない世界の隠喩であると彼らは考えた。バルタザール・グラシアンはこう言ったという。「この世界の事物は、これをことごとく逆しまに眺めなければならぬ。そうしてはじめてまともに見えるのだから」(上巻P.320)

マニエリスムを放逐したのは、魔術的世界観にとってかわった自然科学の知識であった。もっとも、この両者は最初から対立していたわけではない。自然科学は、その起源において、オカルトや神秘主義と密接に関係していた。ところがこのふたつは、いつしか(いつからか、ということを書きだすとまた長くなるので省略する)対立概念となり、マニエリスムの象徴的、隠喩的、魔術的な要素は、近代合理主義の精神によって蔭に追いやられたのである。本書で取り上げられているダリやタンギーらの絵画は、こうした傾向に、近代になって反旗を翻した、まさに近代のマニエリスムなのであった。

ところで、本書には高山宏が「「常数」としてのマニエリスム」という濃厚な解説を寄せている。そこでは日本におけるマニエリスム受容史、ハリー・ポッターからポケモン映画までを射程に含めた、世界と日本を縦横につなぐマニエリスム論が展開されている。私のように冒頭でつまずいた方は、この高山解説から入って下巻から読み始め、その後に上巻に進むとよいかもしれない(高山氏自身、第4部から読んで冒頭に戻ることを薦めている)。老婆心まで。