自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1847冊目】赤坂真理『東京プリズン』

 

東京プリズン (河出文庫)

東京プリズン (河出文庫)

 

 

読み始めてすぐに、異様な迫力と濃密さに、一挙に引きずり込まれる。「16歳のマリが挑んだ現代の”東京裁判”」という触れ込みは、確かに間違ってはいないが、このフレーズから本書の内容を想像することはむずかしい。

最初に感じたのは、たくさんの「対」がモザイク状に組み合わさっている、ということだ。16歳のマリと46歳のマリ。1980年のアメリカと2010年の東京。日本人とアメリカ人。戦争と震災。太平洋戦争とベトナム戦争天皇とキリスト。男と女。

両者は対立しているとは限らない。むしろ奇妙に混ざり合い、重なり合い、往還する。特に奇妙な印象を残すのは、16歳のマリが国際電話で46歳のマリと話すくだり。ここでは著者自身と思われる「マリ」の、過去と現在が交錯する。

二項対立の極みというべきはディベートだ。ここでは意図的に対立構造が設定され、参加者はその枠内で議論を行うことを強いられる。当人の主張や意図とは関係なく一つの立場、一つの主張を行うことが求められる。だからマリは「天皇戦争犯罪人である」という立場でのディベートを行わなければならなくなる。

しかし、このフェアネスは偽装である。天皇が神であるかどうかは議論の対象になっても、キリストについては議論の対象にならない。そもそもディベートの最初に「聖書」に手を置いて宣誓することが、すでにある種の前提を含んでいる。このディベートの構造は、それ自体が、フェアネスを装った東京裁判そのもののフェイクである。まさに「天皇戦争犯罪」をめぐるディベートは「東京裁判のやり直し」であったのだ。

根本的なアンフェアネスを抱えながら、それでもその枠内のフェアネスを貫徹しようとするのも、ディベートの面白いところである。天皇戦争犯罪を告発するのが日本人のマリであるのに対して、アメリカ人のクリストファーは見事な弁論を展開して天皇を「擁護」する。しかもそれは、天皇を擁護しつつ侮蔑するという、きわめて巧妙なやり方で行われる。これもまた、東京裁判とみごとに相似形である。東京裁判でも、アメリカ人の弁護人がA級戦犯を真面目に「弁護」した。それはまるで、東京裁判そのものの正当性を弁護するかのように。

フェアに見えるシステムに構造的なアンフェアネスを組み込むというやり方は、帝国主義以来の欧米の「十八番」である。アヘン戦争も日本の開国も太平洋戦争もグローバル資本主義も、その意味では同断だ。これまで、日本はこの「見せかけのフェアネス」に巻き込まれ、付き合わざるをえなかった。それと戦うことができなかった。どうやって戦えばよいかわからなかった。

マリはこの「枠組み」そのものと戦った。ディベートそのもののアンフェアネスを告発し、それによって東京裁判そのものの欺瞞を暴きだした。そのための「言葉」を、マリはベトナムの結合双生児や、狩りで仕留めたヘラジカや、「贄の大君」を通して獲得した。

自らの言葉を獲得することで、日本人は自らの物語、自らの神話を創り出すことができる。マリが挑み、成し遂げたのはまさにこのことだ。そして、すべての日本人がこれからやらなければならないことも。その時、かりそめの二項対立はその欺瞞と虚構を暴かれる。ふたつはひとつのものとなり、私は世界の入れ物となる。世界は私を含んだ「世界曼荼羅」となる。

「世界のすべてに私がいて、私の中にも世界のすべてがある」

未踏のブンガクへ、ようこそ。