自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1782冊目】杉野昭博『障害学』

障害学―理論形成と射程

障害学―理論形成と射程

「障害者をめぐる20冊」4冊目。アメリカではじまり、英米で発展した「障害学」の内容を紹介し、日本でのありようを考察する一冊だ。

全体を通じてキーワードとなっているのが、障害を個人の属性(インペアメント)ではなく、社会の障壁(ディスアビリティ)としてとらえる「社会モデル」という考え方。たとえばイギリス障害学では、障害者とは、社会のディスアビリティによって「無力化された人々」と考える。働きかけの対象は、「障害者」個人ではなく、それをとりまく環境なのである。

もっとも実際には、インペアメントとディスアビリティは不可分で、どちらがどちらと一方的に決まるものではない。だいたい現実問題としては、インペアメントがディスアビリティを規定するのだから、一方だけに焦点を当てるのはバランスを欠いているようにも思われる。しかしどうやら、著者は「あえて」そうやっているらしい。

「しかし、そうしたことは承知の上で、一部の障害当事者たちは「社会が悪い」とこれまで主張してきたのである。なぜならば、障害者を受け入れない社会が悪いのだと声を大にして主張しないと、障害者自身の自殺や、障害胎児の選択的妊娠中絶や、障害児家族の無理心中を止めることはできないからである」(p.118)

もちろん、社会が悪いと考えたからといって、こうした悲劇がすべてなくなるわけではない。だがそれでも、「障害は個人の問題、個人の不幸」「障害児はまず親が面倒をみるべき」「障害児を育てるという負担は親が背負うべき」という考え方がいかに障害者本人や親を追い込むかは、想像に難くない。

このあたりは、本書の後半で紹介される日本の障害者運動の草分けである「青い芝の会」の、一見先鋭的な主張にも通じるものがある。「脱親・脱家族」を主張した「青い芝の会」は、「泣きながらでも親不孝を詫びながらでも、親の偏愛をけっ飛ばさねばならない」と叫んだものだった。

ちなみに、日本では「障害学」の発展は英米より遅れているが、障害者運動は先進的な部分が多いという。特にこの「青い芝の会」の「反施設」「脱家族」の主張は、今見てもエッジが立っている。先進的な海外の「思想」を輸入するのではなく、障害をもって生きるとはどういうことかを、無数の実践を通じてみずから考え抜いた結果と思わせる迫力がある。

その点では、失礼ながら、むしろ著者ご自身のほうが、「障害学」という「輸入の学」の枠組みにとらわれすぎているように感じた。著者は、日本では障害学と障害者運動に距離があるという。しかしむしろ、日本の障害者運動は「障害学」を必要としていないのではないか、と問うべきであるように思われる。

そもそもこの手の「学問」は、その国の「国柄」「文化」と無関係ではいられない。たとえばアメリカ障害学は公民権運動の影響が大きく、マイノリティとしての立場から障害者運動を展開しようとしたというが、これはアメリカという独自のお国柄あってのことだろう。アメリカ障害学がもつ能力主義への警戒も、そもそもアメリカ自体が能力主義をひとつの価値観としていることに由来している。

したがって、日本であえて「日本型障害学」を打ち建てる必然性があるとすれば、それは日本という社会環境、文化環境の中で障害者をどう位置付けるか、ということになってくる。本書は「外来」の学問の紹介がメインなのでそこまでは至っていないが、そうした生きた試みが出てきてはじめて、障害者運動もその成果を取り入れていけるのではないだろうか。

ちなみに本書では、社会モデルとその実践としての「障害者差別禁止法」についても言及しているが、本書刊行後の2013年、障害者差別「解消法」が成立し、再来年には施行されることとなっている。これまでの障害福祉制度が「個人モデル」に由来する個人への働きかけであったことを考えれば、これは重要な変化である。障害学がこの法律をどう受け止め、議論を展開していくか、障害学にとっても正念場だ。