自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1753冊目】海老沢泰久『美味礼讃』

美味礼讃 (文春文庫)

美味礼讃 (文春文庫)

「おいしい10冊」5冊目は、辻調理師専門学校の創設者、辻静雄の伝記小説だ。

とはいっても、経営者としての「成功本」ではない。描かれているのは、「ホンモノの」フランス料理を初めて日本に紹介したパイオニアであり、調理師教育の革命児としての辻静雄である。

辻は調理師ですらなかった、ということにまず驚いた。もともとは新聞記者だった。結婚した相手の父親がたまたま料理学校をやっていた、というだけのことで、料理の世界に入ることになったのだ。だが、そうした「外からの視点」でこの業界を見たからこそ、辻は「日本に本物のフランス料理を食べさせる店がない」ことに愕然となれたのだろう。

ちなみに当時の「西洋料理」は、外国船のコックが作っていた料理が広まったものだったという。今でいう「洋食」のルーツである。もちろん「洋食」だっておいしいが、それはあくまで「ニセモノ」だ。辻が知りたいのは、まじりっけなしのホンモノのフランス料理だった。それが日本中、どこに行っても食べられない。

そこで最初の乾坤一擲、五百万円をかけてのフランス行きを辻は決断する。当時の五百万円は新聞記者の月給20年分。それを「わずか数か月間、食べることだけのため」に使おうというのだからものすごい。だがもっとスゴイのは、実際に行ったフランスで辻が受けた衝撃だった。

料理自体がとてつもなく旨そうなのは、まあフランスでも最高のレストランばかりを巡っているのだから当然として、意外なのはどこの料理人も、問われれば惜しげもなくその技術を明らかにしたというくだり。当時の日本料理界は(今もそうかもしれないが)「料理は教えるものではなく、盗むもの」という「教え」が公然と叫ばれていたのだから、これは天地がひっくりかえる衝撃だったろう。フランスでも最高峰のレストラン「ピラミッド」のマダム・ポワンは、こうした日本の「風習」を聞いてこう言う。「それはきっと自分の料理に自信がないからでしょう」

辻静雄にとってのフランス料理は、海外で「ホンモノ」を学び、それを日本に持ち帰って広めるという、近代日本発展の「黄金パターン」が、最高の形ではまったものといえるだろう。考えてみれば、そもそもなぜ日本で「最高のフランス料理」を作れるシェフを育成しなければならないのか、それならフランスに行けばよいのではないか、という気もするが、しかし実際に「最高のモノ」を現地で学び、輸入することを徹底してきたからこそ、日本はどこの国の料理でもトップクラスのものを食べられる国になったのかもしれない。

いずれにせよ、徹底的に「ホンモノ」にこだわり抜いた辻の強い意志と、それに応えるように、他校の倍の学費を払ってでも辻調理師専門学校で学ぼうという調理師志望者が殺到したということはまぎれもない事実である。それが今や国内最大の調理師育成の場となっていることを思うと、あらためて辻のパイオニアぶりに驚く。

さて、冒頭に「これは経営者としての成功本ではない」と書いたが、実際、本書で学校の経営面を担ってきたのは山岡というパートナーであり、辻静雄は徹底して料理やサービスなど、「中身」の充実に注力できたという。この役割分担が、辻調理師専門学校が成功した最大の理由かもしれない。

むしろ辻自身は、世間的な「成功」からは一貫して背を向けてきた人間であった。たしかに辻には、孤独な求道者としてのイメージのほうがよく似合う。そんな人物が日本最大の調理師学校の校長であったことは、考えてみれは痛烈な皮肉である。

そして、だからこそ、辻の人生には学ぶべき点が多い。いや、学ぼうと思わなくても、この生きざまにはいろいろと揺さぶられるものがある。晩年には内臓の疾患に悩まされるが、それも各国の料理を食べ続けてきた人生の勲章だ。特に若い人に読んでほしい、熱気あふれる好著である。