自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1601冊目】向田邦子『夜中の薔薇』

夜中の薔薇 (講談社文庫)

夜中の薔薇 (講談社文庫)

向田邦子、最後のエッセイ集。「アマゾン」「楽しむ酒」など、初出が著者の没後となっているように、ほんとうに著者の亡くなる直前の文章が収められている。

タイトルの「夜中の薔薇」は、本書収録の同名エッセイから。シューベルトの歌曲の「童は見たり 野中の薔薇」を「夜中の薔薇」と聴き違えていたという人の話にはじまり、歌詞の覚え間違いの経験、「夜中の薔薇」という言葉のイメージ、「夜中に花びらが散ると音がする」という話、夜中にかかってきた妙な電話のこと、戦後間もない頃に学校の先生の家に泊まった時のエピソード、こないだ夜中に帰宅したら家の前に薔薇の花束が置いてあり(店じまいをする近所の花屋からの餞別だった)、しおれかけた花を水風呂に漬けておいたこと、その間に思い出したノモンハン帰りのタクシー運転手の話と、わずか11ページほどのエッセイでくるくると話題が変わる。

とはいえ、話題の切り替えが実に自然で違和感がなく、その中で読者をドキドキさせたりほんわかさせたりさせて、しかもラストは見事に「夜中の薔薇」に戻ってくるのが、やはりさすがの名人芸なのだ。「テーマが」「構成が」などと理屈を考えていては、こういうエッセイは絶対に書けない。なんというか、良い意味で「話しているように書かれている」文章なのだ。

比較的長いものから1〜2ページ程度のものまで、本書に収められているエッセイは、どれもこの「話術」が実に自然でしかも巧く、うならされてばかりだった。内容は日々のどうということもない出来事や、その時のちょっとした心の動きがさらりと書かれているだけなのだが、にもかかわらず本書のエッセイ(に限らず、向田邦子のエッセイ)で、つまらないと感じたものはひとつもない。考えてみれば、これはスゴイことではないか。

著者最後のエッセイ集、ということで、読みながら特に考えさせられたのは「手袋をさがす」という少し長めのエッセイだ。結果的に、最後のエッセイ集にこの一篇が入ってしまったことには、何か因縁めいたものを感じる。

若い頃、気に入った手袋がなかったので、真冬でも手袋なしに過ごしていた著者に、当時の会社の上司が何気なくかけた言葉「君のやっていることは、ひょっとしたら手袋だけの問題じゃないかも知れないねえ」が、著者にとってどうやら雷鳴の一撃になったらしい。著者はこの一言をトリガーに、「ないものねだりの高のぞみ」という自分のイヤな性格に、とことん付き合ってやろうと決めたという。

「今、ここで妥協をして、手頃な手袋で我慢をしたところで、結局は気に入らなければはめないのです。気に入ったフリをしてみたところで、それは自分自身への安っぽい迎合の芝居に過ぎません。本心の不安に変わりはないのです。いえ、かえって、不満をかくしていかにも楽しそうに振舞っているようにみせかけるなど、二重三重の嘘をつくことになると思いました」(p.228)

そのため著者は、自分の「現実的な欲望」をごまかさずに生きることにしたという。だが、私はむしろ、著者は自分自身の「好み」に殉じることにしたのだ、と考えたい。

好きなものは好き、イヤなものはイヤ。そのことをすべてに徹底させたからこそ、後の名作家、向田邦子が生まれたのではないだろうか。その「覚悟」と「気風」が、ふんわりとした感性と気遣いの中にしっかりと横たわっているからこそ、この人の文章やシナリオは、読む者、観る者をつかんで離さない魅力を備えているのではなかろうか。