【1595冊目】森達也・綿井健陽・松林要樹・安岡卓治『311を撮る』
- 作者: 森達也,綿井健陽,松林要樹,安岡卓治
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2012/03/03
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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著者の4人が、2011年3月26日から31日にかけて被災地を回り、50時間を超える映像を撮った。それを編集して生まれたのが、ドキュメンタリー映画「311」である。本書は、4人がそれぞれに、撮影の日々や自らの思いを綴った一冊だ。
森達也氏は、メディアの覚悟を語る。客観性を語るメディアの欺瞞を突き、あえて主観を、撮る者の思いや都合を前面に出す。「どうせ人を傷つけるなら、傷つけていることをしっかりと自覚すべきだ」「メディア関係者が覚悟すべきは、人を傷つけない覚悟ではなく(だってそんなことは不可能だ)、人を傷つける覚悟だ」と言う。
津波で親を亡くした子どもを取材し、遺体を撮ろうとして自警団の人達に怒鳴られ、そんな自分の行為を「鬼畜のような所業」と言う。しかし、森氏のその言葉の向こう側に見えてくるのは、親を失った子どものインタビューを聞きたいと思い、遺体の写真を見たいと思う「われわれ自身」の姿だ。そもそも、読者が鬼畜でなくて、なぜメディアの人達だけが鬼畜たりうるのだろうか。
綿井健陽氏は、アレキシサイミアという言葉が気になった。野田正彰の『喪の途上にて』という本に載っていた言葉だという。日本語にすると「失感情言語化症」。客観的な事実を説明することはできても、それに対する自分の感情をうまく感知し、言葉にすることができない症状だ。実際、綿井氏は被災地を歩き、カメラを向けながら、その撮影者たる自分が見えなくなっていったようだ。
「遺体を撮らない、映さないメディアの主体以前に、そもそも主体が消えたのは自分だった。見えない放射能、見えない血と遺体、匂わない臭いを追跡しているうちに、自分の撮影現場からだんだん人が消えている。目の前にいる人間の姿が見えなくなっていった」
4人の中で最も若い松林要樹氏は、試写会後に行った居酒屋でわめいた。「こんな森さんの自傷映画、誰が楽しむんだよ! スタッフばっかりが目立って、まったく被災地の外に意識が向かわない……」
撮影の時から「後ろめたさ」を感じ続けていた。取材に積極的になれず、怒鳴られても食い下がる森氏らの姿から「カメラで撮ることの業」を感じ、ひるがえって自分自身は「素材も現場で粘る覚悟もあの時点では、すべてが不足していたと思う」と言う。しかしその不完全燃焼感が、別の映像作品『相馬看花第一部』に結実した。上映は『311』と同じ山形国際ドキュメンタリー映画祭だった。
安岡卓治氏は、撮影とともに映像の編集を担った。現場で感じたのは「これまで経験したことのないほどの無力感」だった。撮った映像はすべてがNG映像だった。だったら、遺体を撮ろうとした森氏に木片を投げつけた被災者の「大NGカット」を基軸に編集しようと思った。
編集にあたっては、撮る側の「後ろめたさ」と「無力さ」を描こうと思った。撮る側、つまり自分たち自身の姿をこそ映像化しようと思った。なぜなら、彼ら4人の姿とは、とどのつまり、その向こう側にいる膨大な数の「非・被災者」の似姿でもあるからだ。
だからこの映画は、撮り手が鬼畜であればあるほど、醜悪であればあるほど、あるいは無力であればあるほど、それが「観る側」の反映であるという恐ろしい仕掛けになっている。まったく、なんということを考えたのか。
だから『311』は、単なる震災ドキュメンタリーではない。震災や原発事故に直面したわれわれ自身のドキュメンタリー・フィルムなのだ。う〜ん、観てみたい。でも、ちょっと怖い。