【1580冊目】草森紳一『本の読み方』
- 作者: 草森紳一
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2009/08/08
- メディア: 単行本
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とてつもない「本読み」であり、無類の博学でもあった著者の、本にまつわるエッセイ集。
趣味は読書、と自称する人のことを、著者は「気が知れない」と言う。「本を読むのは楽しいが、楽しいから読書するというわけではない。読書はするが、読書家ではないのは、そのためで、ましてや勉強のために読書することなど滅多にない。ともかく読むのである」(p.8)
この「ともかく読むのである」がスゴイ。ここでは読書は、目的ではなく、ましてや何かをなすための手段などではない。もはや読書が人生と一体化している。
中身を読むことばかりが読書ではない。ページをめくる手の動きだって読書である。活字を見つめながら、ぼうっと他の事を考えるのだって、読書なのだ。ちなみに著者は、家で本を読む時は、100パーセント「寝ころんで」読むという。
こういう「本の読み方」に触れると、なんだかホッとする。私も本の読み方はかなりいい加減なほうだと思うのだが、それでも「内容に集中しなくては」「ちゃんと理解しなくては」と考えてしまったり、他に気になることがあっても無理やり自分を本に集中させようとしてしまう。まだまだ、なのである。
ヒトラーや毛沢東がたいへんな読書家であったことにも触れられている。ヒトラーはどんなに遅く床についても「毎晩1、2冊」を読んだと言うが、一方では老眼だったので、読むときには天眼鏡を使ったという。老眼鏡をかけることもあったらしいが、公式の写真では眼鏡をかけなかった。大衆操作の天才であったヒトラーは「永遠のヒトラー」でありつづけなければならず、老いた姿をさらすわけにはいかなかったのだ。
毛沢東もベッドで本を読んだ。巨大な特注のベッドをつくらせ、その半分から三分の二は本で埋まっていたという。少年時代は野良仕事のすきをみて近くの墓場に隠れ、水滸伝や三国志演義を読みふけったというから面白い。しかしその毛沢東が、文化大革命で知識人狩りを行ったのは、どうしたわけか。著者はそこに「書物人間へのいらだち」を見る。毛沢東の読書はあくまで現実への応用を念頭においたものだった。
ほかにも芥川龍之介の速読、書斎の有島武郎、母親から字の学習を禁じられたアガサ・クリスティ、ブラッドベリの図書館イメージなど、様々な人物の「本の読み方」に触れつつ、著者はただひたすらに、本の愉しみを歌い上げる。また、印象的だったのが、一心不乱に本を読みふける人の姿への愛着(表紙や各章のトビラは、著者自身が撮影した、さまざまなシチュエーションで本を読んでいる人々のスナップになっている)。最近は本に代わってスマホをいじる人の方が多いかもしれないが、こうして写真を見ていると、偏見かもしれないが、やっぱり本を読む姿のほうがサマになっているように思えてならない。電車の中でスマホを操作している人の姿が、なんだかいじましく見えてしまうのは私だけだろうか。
本書でもう一つ、印象的だったのが「読書の冬」というタイトルの一章だ。著者は「読書の秋」には宣伝臭がすると言い、それよりも「読書の冬」を強調する。そして、そもそも読書の時間として「三餘」という言葉を紹介するのだ。これは、本を読む時間がないと嘆く弟子に「冬という歳の余り」「夜という一日の余り」「雨という時間の余り」があるではないか、と説く中国の故事がもとになっているという。
もちろんこれは農耕民族にとっての「余り時間」であって、そのまま鵜呑みにはできない。むしろ今なら、倉田卓次氏の言う「四隅の時間」(歩く時間、トイレの時間、電車に乗っている時間、寝る時間)のほうだろうか。ちなみに私の場合、通勤時間と喫茶店が読書タイムの8割ほどを占めていて、その癖がつきすぎて家ではかえって本が読めない。困ったものだ。
本書は本好きの方すべてにオススメしたいが、特に読書に義務や効率を感じる人、さらにいえば読書に「効用」を求める人こそ、その呪縛から解き放たれるために読んだ方がいい。だって、読書って、もっと自由で、もっと「生きること」そのものなのだ。