【1577冊目】服部正明・上山春平『仏教の思想4 認識と超越《唯識》』
- 作者: 服部正明,上山春平
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 1997/06
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少しずつ読み進めている「仏教の思想」シリーズも3冊目(1冊目の「知恵と慈悲《ブッダ》」は読んでいないので)。アビダルマ、中観、唯識と進んできたが、なんだかどんどん難しくなってくる。
「唯識」とは、いわば実在の否定である。「識」とは認識機能で、仏教ではこれを「眼耳鼻舌身意」の6種類に分けるのだが、ふつうは、何かを認識した場合、それに対応する何ものかが外界にあると考える。しかし唯識の思想は、存在すると言えるのはただ心に映し出された表象のみであり、外界の存在物は「ない」とする。
こうした思想自体は哲学のテーマとしてよく出てくるものであるが、唯識がちょっとユニークなのは、体験的に理解しようとする人々によって形成されたと考えられていることだ。こうした人々を瑜伽師と呼ぶ。ユガ、つまりはヨーガ(ヨガ)である。ちなみにヨーガ自体は、インドに古くから存在する精神統一のための実修法で、仏教にも早くから取り込まれたらしい。
さて、すべては心の中に生じた表象であり「識」であるとすると、それが起きているのはどこか。ここで登場するのが「アーラヤ識」だ。アーラヤ識とは一種の潜在意識であり、自我意識の底にある深層意識のことを言う。
なんとなくフロイトの言う「無意識」っぽい……と思っていたら、第2部の対談で上山氏がさっそく同じようなツッコミを入れていた。それに対して服部氏が答えている内容が東西比較という意味でちょっと興味深い。服部氏によれば、そもそも西洋では本能や衝動というものが合理的な思惟の根底にあると考える。理性的な自我によって押し込められた本能的な衝動が無意識であり、エスであるとみなすのである。それに対して、インドはどうか。
「インドには合理や非合理、理性と衝動といった対立がないですね。人間を理性的動物として他の動物から区別することはほとんどありません。だから汚れは生物的な本能や衝動に由来するという考え方にはならないのです」
汚れ、という言葉が出てきたが、アーラヤ識そのものは汚れではない。しかし、そこには煩悩を生む種子が置かれていると考える。この煩悩の種子があるために、人は輪廻から逃れることができない。アーラヤ識は輪廻思想のいわば本拠なのだ。
だが、一方でアーラヤ識には煩悩に対抗する「無漏の種子」が置かれることもある。そうすると煩悩の種子は存在する場所を奪われ、その結果、人は輪廻のループを脱して涅槃に至る。つまりは仏教の「ゴール」に到達することができるのだ。
なんだかあまりにもざっくりした適当な説明しかできず申し訳ないのだが、ついでに大雑把な説明を続けると、この表象された存在形態は3種に分けられるという。「仮構された存在形態」「他に依存する存在形態」「完成された存在形態」である。
「仮構された存在形態」とは、ふつうわれわれが抱く概念や表象をいう。外部に存在すると思われやすいのは、この仮構された存在形態だ。本書ではこれを「名称のとおりに対象があるという執着」「対象のとおりに名称があるという執着」という。ものがそれ自体として存在するという考え方は、仏教においては虚妄とされるが、この存在形態はそれと同じことのようである。
次の「他に依存する存在形態」は、いわば「縁起」の世界である。存在と非存在の両方の性格をもっており、あるともないともいえないものだ。さらに「完成された存在形態」となると、これは「あらゆるもののありのままの様態」を言うらしい。「他に依存する存在形態」が瞬間ごとに異なる内容をもって発生するものであるのに対し、「完成された存在形態」は「現象的存在がそれ自体として存在していないこと、すなわち空、あるいは現象的存在としての法性」であるという。ああ、ややこしい。
後者二つの違いは正直かなり分かりにくいのだが、私の理解では、常に変化して相互依存し続けるのが「他に依存する存在形態」であるのに対して、その奥にある不変性、あるいは本質部分を捉えたものが「完成された存在形態」であるように思われるのだが、どうだろうか。
本書はインド仏教のもっともややこしい部分を通過しているところなので、かなり複雑で抽象的な議論が展開されている。ブッダの教えの奥の深いシンプルさに比べると「思えば遠くにきたもんだ」とでも言いたくなるが、インド仏教を扱った本シリーズはこの本で終わり、第5巻からはいよいよ中国仏教に入る。仏教の「変容の旅」は、これからが本番だ。
さて、先日の記事の最後に、読書感想をブログで書くことについて中野雅至氏の文章を引き、ひとつの問いかけをさせていただいた。実は、私にとっての「答え」は、上の文章の中にある。
要するに、本の理解というのは外に正解があるのではなく、読み手の内部に、読み手のそれまでの経験や思想と固着したカタチでしか存在しないものなのだ。つまり、読書とは本質的に一知半解であり、さらに言えば誤解なのである。そういう意味では、すべての読み込みは多かれ少なかれ「中途半端」だし、すべての感想は「安易」なものなのだ。
それを「書くな」ということになれば、世の中の書評という書評は成り立たない。そこまでの「覚悟」をもって、中野氏はあのようにお書きになっておられるのだろうか?