【1435冊目】アダム・ファウアー『数学的にありえない』
- 作者: アダムファウアー,Adam Fawer,矢口誠
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2009/08/04
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19世紀フランスの数学者ピエール=シモン・ラプラスが提唱した「究極の決定論」である。
仮に世界中のすべての原子の位置と運動量を知ることができれば、未来を完璧に見通すことも可能となる。例えばコインを弾いて表が出るか裏が出るかは、コインそのものの状態、コインを弾く指の力の方向とエネルギー、空気抵抗等をすべて見通すことができれば、100%の確実性をもって言い当てることができる。ラプラスはそうしたすべてを見通す存在を仮定し「魔」と呼んだ。
本書はこの「ラプラスの魔」を最終章のタイトルにもってきた。もちろんそこには意味がある。主人公のデイヴィッド・ケインは、借金返済と癲癇の発作から逃れるため新薬の実験台となるのだが、その結果、なんと自らが「ラプラスの魔」になってしまうのだ。
未来予知をテーマにした小説は数多いが、その「無敵さ加減」を本書ほどうまく取り込んだ物語は珍しい。それほどに、ケインの未来予知能力……というか「未来操作能力」はケタ外れである。なにしろ今後自分がとり得るありとあらゆる行動のパターンとその結末を、瞬時に脳内でたどり、ベストの方法を選ぶのだから、そりゃあCIAも北朝鮮の工作員もロシア・マフィアも敵うワケがない。
だから読み手は、ケインの置かれた状況が絶体絶命であればあるほど、ケインがどんな奇想天外な方法で窮地を脱するのかが気になってしょうがない。ここで著者がエンターテイナーとして周到なのは、だからと言ってケインが、いつもいつも楽々と困難を乗り越えるワケではないというところ。ケインが選べるのはあくまで「可能な未来のうちのどれか」であって、自在に未来を選べるということではないのである。
そんなケインを囲むサブキャラクターも強烈に魅力的だ。CIAに所属しつつ北朝鮮に国家機密を売っている(その取引が失敗して工作員に命を狙われるようになる)ナヴァ、デイヴィッドの双子の兄で統合失調症らしいジャスパー(語尾に韻を踏む癖がユニーク)、マッド・サイエンティストじみたトヴァスキーに悪辣な地下カジノのボスであるニコラエフ……。個人的には、娘の命を救うためフリーの追跡屋になった冷徹なマーティン・クロウが印象的だった。
こんな登場人物が乱舞するノンストップ・アクションに、突然挿入される数学や理論物理学の「講義」がまたユニークだ。講義なんていうとなんだか難しそうで抵抗感を感じるかもしれないが、本書に限っては心配ご無用。
なんといっても解説は尋常でなく分かりやすいし、その内容がそのままストーリーに直結しているので、読者はケインとナヴァのハラハラドキドキの逃亡劇に手に汗握っているうちに、いつのまにか確率論の基礎やハイゼンベルグの不確定性定理や「シュレディンガーの猫」や「ラプラスの魔」が頭に入っているという仕掛けなのだ。
それにしてもこの作家、本書がなんと処女作というのだから、まったく末恐ろしい才能だ。数学や物理学がエンターテインメントの主役を張るなんて、しかもそれがこんなに面白いなんて、それこそ「ありえない」話ではなかろうか。
ちなみに翻訳もとても良い。"Improbable"を「数学的にありえない」と訳すセンスに加え、、ジャスパー・ケインの韻を踏んだ語尾変化をナチュラルに日本語に置き換えるあたり、実にうまいのである。
というわけで本作は、前代未聞の「理系ノンストップ・アクション・ノヴェル」。解説では『ダ・ヴィンチ・コード』やマイケル・クライトンと比較されているが、ハッキリ言って小説としての出来はこちらのほうが上だと思う。未読の方には、秋の夜長のための「徹夜読書」候補としてオススメしたい。