自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1428冊目】宮尾登美子『春燈』

春燈 (新潮文庫)

春燈 (新潮文庫)

』に続く著者の自伝的小説。前作が綾子の(育ての)母、喜和の視点で書かれていたのに対し、コチラは著者自身と思われる綾子が中心となっている。

『櫂』は、綾子が離婚した父親のもとに引き取られるところで終わったが、本書はその少し前から始まっている。したがって、『櫂』で喜和が見たのと同じ光景、同じ人物が、今度は幼い綾子の視点で書かれているのだ。

この仕掛けがたいへん面白い。一人の人間の見える範囲、理解する範囲とは、本当にものごとのほんの一部なのだなあ、と思わせられる。しっかり読み比べたわけではないが、前作には書かれていなかったエピソードもふんだんに盛り込まれ、物語が重層的に立ち上がってくるが凄い。

なかでも前半の白眉は、父の岩伍と喜和の離婚が決まり、父のもとに身を寄せるよう言われた綾子がその言いつけに反抗した時のシーンだろう。「綾子、お前の性根をいまからお父さんが鍛えなおす。来いっ」と叫んだ父に、綾子が二階へ連れて行かれる場面である。

『櫂』では綾子が折檻を受けるのではないかと下で気をもむ喜和の描写しかないのだが、綾子視点での本書では、実際に二階で何があったのか、その真相がしっかりと書かれているのだ。そして、折檻どころか、そこでの経験は、綾子の父に対する見方を決定的に変えてしまうほどのものだったことが、ここで初めて見えてくるのである。

綾子が喜和のもとを離れた後は、子どもから少女、そして女性になろうとしている綾子の成長譚になっている。わがまま放題に育てられた綾子の言動は読んでいて腹が立ってくるほどだが、考えてみると、著者は自分自身の生い立ちをそこに重ね合わせているのだ。自分自身のわがままさや傍若無人さをここまでセキララに書いてしまうとはびっくりだが、それもまた、著者の作家としての覚悟というべきか。

「作家として他人の人生を描くならばその代償として、或は対比として、自分自身をあますところなく暴いてみえるのが誠意なのだと、ほとんど頑固にそう思い込んでいます」(p.634)

著者はあとがきで、こう書いている。そこには「他人の人生」を描くことを業として背負いこんだ凄みが光っている。作家とは、ここまでしなければならないものなのか。なまじの私小説作家よりも、この人には「私」を描く覚悟と、ある種無慈悲なほどの冷めた視線をもっているように思う。

それにしても、本書は綾子を通じて、少女の心理というものを実に細密に描いており、いやはや、中学生や高校生の女の子がこんなことを感じ、考えているのだとしたら、これでは男子学生などとてもかなう相手ではない、と思い知らされる。

特にこの綾子ときたら、プライドは誰よりも高く、触れば切れそうな感性をぴりぴりとみなぎらせ、同時に誰よりも弱く、繊細で、壊れやすい。暴君のような父の変化と、さらにその背後を大きく包む戦争の影の中で、果して綾子がどうなっていくのか、気になって仕方がない。

ちなみに本書を読んで一番びっくりしたのは、父の岩伍が中野正剛に傾倒し、綾子を中野家の手伝いに、という話まで出ていたというくだり。肝心の中野正剛の自決でその件は沙汰やみになるのだが、ひょっとして綾子=宮尾登美子中野正剛の下働きをしていたら、作家・宮尾登美子は生れていただろうか(あるいは、どんな作品がそこから生まれていただろうか)。そんなことを考えていると、歴史の奇遇というものを思わざるをえない。

本書の続き(書かれたのは本書より前だが)の『朱夏』では、綾子は結婚して満州に渡るとのこと。ああ、早く読みたい。読まねば。

櫂 (新潮文庫) 朱夏 (新潮文庫)