自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1336冊目】M・ラムザイヤー&F・ローゼンブルース『日本政治の経済学』

日本政治の経済学―政権政党の合理的選択

日本政治の経済学―政権政党の合理的選択

「官僚悪玉論」が言われて久しい。ここでいう「官僚」は、いわゆる霞が関のエリートたちであるが(われわれ自治体職員の場合はたいてい「公務員批判」)、地方公務員批判にはどちらかというと飲酒運転とかワイセツとかワイロだとかの犯罪系が多いのに対して、官僚に対しては(もちろん犯罪やハレンチ系のスキャンダルもあるが)事実上日本を支配しているとか、政治家をコントロールしているという、いわば「官僚=日本の黒幕=現在の状況を招いた悪玉」という図式での批判が多いような気がする。

もっとも、官僚悪玉論自体は、決して最近始まったことではない。1992年(邦訳は1995年)に刊行された本書がすでに、この手の主張を「一般に流布するもの」として取り上げ、批判している。

さらに、本書が分析対象としているのは、いわゆる55年体制下の日本政治、すなわち自民党が圧倒的な強さを誇っていた時代の政・官関係である。そして、当時すでに官僚は「ほとんどの政策について立案・草案の作成を行い、執行にあたっては裁量権を行使する」(p.13)存在であると一般に考えられていたという。

しかしそうした官僚像を、著者は「うわべの姿」にすぎないと指摘する。むしろ官僚は、実際には常に自民党の意向に沿って政策を組み立て、自民党によって常に監視・コントロールされる存在であったのだ。その例として著者は国会における拒否権に加え、人事権や天下りのコントロールなど、政治家が官僚の人生を決定づける手綱を握っていることを挙げている。

こうした構造を分析するのに用いられているのが「プリンシパル−エージェント・モデル」というモデル。これは要するに、官僚は自民党の「代理人」として動いているにすぎない、というものである。「自立的で、日本の公益に関して明確なビジョンをもってことにあたる」という官僚像は偶像に過ぎない、と著者は明言する。「日本の官僚は自民党の影となって動いているに過ぎないのである」(p.119)

もちろん、本書で扱われているのは、自民党に対する官僚の位置づけだけではない。同じ代理契約モデルを、本書はさまざまな対象に適用し、それによってなんと日本の政治と社会に複雑に埋め込まれた構造それ自体を浮きあがらせていくのである。有権者と議員、議員と派閥、議員と自民党幹部、自民党と裁判官……。そこに仕込まれた複雑で相互依存的な構造こそは、まさしく日本を動かしていた55年体制の「システム」そのものにほかならない。

本書の記述は、このシステムにほころびが出始め、自民党が初めて政権を明け渡した細川連立内閣のあたりで終わっている。しかし今にして思えば、その後に起きたことはまさに、この自民党を中心として戦後日本を支えてきた「システム」の崩壊の歴史であった。その筋書きは、たどっていくと中選挙区の廃止(これについては本書でもかなりていねいに分析されている)から小泉改革までまさに一瀉千里、ついには民主党による本格的な政権交代につながるものにほかならない。

思うに、こうした「55年体制」自体は、いろいろ批判されてはきたものの、戦後の日本を建て直すための、ある意味もっとも合理的なシステムであったのだろう。問題は、この「55年体制」システムを壊すだけ壊しておいて、それに代わる政治のシステムがいまだに作られていない、ということだ。特に政治家の世界を見渡すと、出てくるのは、小泉にせよ小沢にせよ「壊し屋」ばっかりである(橋下市長も明らかに「壊し屋」タイプであろう)。

日本人は300年続いた江戸時代の基本システムを構築した徳川家康より、それまでの仕組みをぶっこわした織田信長のほうが好きらしいのだが、それにしたってそろそろ信長タイプばかりじゃなく、家康タイプの地道でしたたかな「創り屋」が出てきてほしいものなのだが(それが社会構造の複雑さによって難しくなっている、と論じていたのが、以前読んだ『官僚制批判の論理と心理』という本であった)。本書はそこまでの問題意識を示したものではないが、刊行後の20年間の政治の不毛を思うと、そんなことまで言いたくなってしまうのである。

官僚制批判の論理と心理 - デモクラシーの友と敵 (2011-09-25T00:00:00.000)