【1319冊目】樋口一葉『樋口一葉日記・書簡集』
- 作者: 樋口一葉,関礼子
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2005/11
- メディア: 文庫
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明治24年から没年となる29年までの一葉の日記に書簡を加え、さらに一葉についての文章をいくつか採録した一冊。
大半を占める日記は、わずか100年ちょっと前に書かれたものとはとても思えない。むしろ読んでいて思い出すのは、1000年前の、こないだ読んだ和泉式部日記。なにしろ、今の時代からするとほとんど「古文」に等しい和文、縦横に織り交ぜられた古今集や源氏物語、あるいは漢詩のフレーズ、しかも文中には「和歌」まで登場するのである。一葉の天才ぶりを差し引いても、せいぜい20〜24歳の女性が、100年前はこんな文章を、身辺を綴る日記に書けたということに、まずは愕然としてしまう。
もっとも、内容を見ると、『和泉式部日記』とはみごとな正反対。なにしろ、何不自由のない裕福な生活の中で恋にうつつを抜かしておれた平安貴族の生活に比べて、樋口一葉の生涯は10代の頃から貧乏に苦しむ日々の連続であったのだ。
なんといっても、わずか16歳で家計を背負い、商売やら相場やらに手を出しては失敗した挙げ句、「生活費」を得る手段として物書きになった女性である。帥宮とのロマンスどころか、師匠の半井桃水との浮名を流されて困惑するほどの純情ぶり、というより、そんなヒマなどありはしなかったというほうが正確だろう。
そして、なんといっても胸打たれるのが、そんな貧窮のど真ん中でこそ一葉の才能が開花し、庶民の生活と心情をこまやかに描いた傑作をわずか1年ちょっとの間に立て続けに書き、それが近代日本文学を代表する天才として現代にまで残ったという事実である。この日記にしても、和泉式部や紫式部このかた(もちろん「とはずがたり」のような例外もあるが)ぷっつりと途切れていた平安女流文学(とりわけ日記文学)の伝統を、明治の世に鮮やかにルネッサンスさせた作品と言えるのではなかろうか。こんなものを24歳で書けるのだから、これはたしかにとびぬけた才気、ずばぬけた天才と言うほかない。
そんな一葉を賞賛する言葉もまた、本書には数多く収められている。私の拙文などより数億倍も説得力のあるフレーズを、最後に引用しておきたい。
「明治の婦人文学者では先ず第一であらう。徳川氏時代より云ふも女詩人としては此人の上に出るものはあるまい」(幸田露伴)
「布は幾百丈あらうともただの布であらう。蜀紅の錦は一寸でも貴く得難い。短い一葉女史の命の生活の頁には、それこそ私達がこれからさき幾十年を生き伸びようとも、とてもその機微に触れることの出来ないものがある」(長谷川時雨)
「まことに女史の文の如きが日本文学の正系であらう。言葉は短かに意は長く、表は穏やかにはげしさを裡につつんでゐる」(佐藤春夫)
しかし一葉を表現するベスト・ワンフレーズは、長谷川時雨がこの日記を評した次の的確無比な一言であると思われる。ぐだぐだとここまで書いてきたが、実は本書を紹介するには、この一言を示すだけでよかったのかもしれない。一葉とともに、長谷川時雨の才気もまた、ここに光っている。
「蕗の匂いと、あの苦み」