【1205冊目】クリストファー・チャブリス&ダニエル・シモンズ『錯覚の科学』
- 作者: クリストファー・チャブリス,ダニエル・シモンズ,成毛真,木村博江
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2011/02/04
- メディア: 単行本
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最初に、簡単なクイズをやってみよう。次の6つの文章のうち、正しいものをすべて挙げてほしい。
1 携帯電話を手に持って運転するのは危険だが、ハンズフリー機能を利用すれば問題ない。
2 あなたがちょっと振り返ったすきに、目の前で話している相手が別人になっていたら、誰だって気がつくに決まっている。
3 医学書を開けて調べながら診察をする医師よりも、何も見ないで自信をもって診断を下す医師のほうがすぐれている。
4 投資信託は、持ち株の値動きの情報をこまめに与えられ、それに応じて持ち株の配分を変えたほうが儲かる。
5 「週に3回以上セックスするカップルは、週2回のカップルより10歳以上若く見える」という研究結果が発表された。これが事実なら、セックスには若さを保つ効果があることになる。
6 モーツァルトを聞くと頭が良くなる。
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さて、どうだろうか・・・・・・といっても、こういうクイズの答えというのは、だいたい相場が決まっているものだ。そう、答えは「上の6つの文章は、すべて正しくない」(←白抜き反転)のである。
本書はこうした実例をふんだんに取り上げて、人間の心理にひそむ「錯覚」の存在をあぶり出した一冊。上の1〜6は、それぞれ本書で紹介されている錯覚のジャンルに対応している。では、答え合わせとまいりましょう。
1番は「注意の錯覚」。人は、視界に入っていても「見えていない」ものがたくさんある。特に、注意がほかにそれている時は見落としが増えるという。運転中の携帯電話が危険なのは、手がふさがるためではなく、注意が散漫になることで見落としが増えるからだ。中でも不意の飛び出しなど、「予想外の出来事」に対する気づきや対応力が著しく低下することが、さまざまな実験によって明らかにされている。
2番は「記憶の錯覚」。人の記憶はいとも簡単に改竄される。たとえ「鮮明な記憶」であっても、それが正しいとは限らない。記憶と思い込みは紙一重なのだ。短期的な記憶でも、そのことはあてはまる。ある実験では、カウンターの向こうにいる人がその後ろに潜り込み、別人が立ち上がったのに、その変化を被験者全員が見落とした。
3番は「自信の錯覚」。自信たっぷりに見える人ほど信用できると、われわれは無意識のうちに考えている。しかし、自信のほどと能力のレベルは、基本的に無関係。この錯覚がもっとも危険な形で現れるのは、裁判での証言だ。本書に取り上げられている例では、被害者が自信たっぷりに別人の顔をレイプ犯と証言したために、無実の男性が10年以上も刑務所に入る羽目になった。
4番は「知識の錯覚」。わかっていると思っていることが実はわかっていない、ということはざらにある。子供に「なぜ?」を連発された大人がしまいにキレるのは、自分の無知を自分で気づいてしまうからだ。リーマンショックを招いた投資家の誤算は、この「無知の知」を自覚できなかったところにあった。思えばソクラテスの言う「無知の知」とはまさにこのこと。しかし、古代ギリシアの時代から現代の金融工学まで、この錯覚の克服のいかに難しいことか。
5番は「原因の錯覚」。相関関係と因果関係の取り違えについて、心理学や社会学の学生は耳にタコができるほど言い聞かされる。それでもこの呪縛を逃れることは難しい。上の文章でいえば、「セックスと若々しさの相関」と「セックスと若返りの因果」はイコールではない。だって、若々しいからこそセックスの回数が多い(体力がある、相手が魅力的に見える、等の理由で)ことだってあるかもしれないではないか。
6番は「可能性の錯覚」。ここでは自己啓発本、脳トレゲーム、サブリミナル効果などがことごとくなで切りにされていて、個人的にはたいへん胸のすく一冊。なにしろ、そうしたシロモノが人の能力を伸ばしたり意識を変えたりすることはまず期待できず(例えば脳トレなら、その種目の能力は確かに伸びるが、脳全体の機能にそれが及ぶことはない)、プレイヤー(あるいは読者)は、単にそういう気になっているだけだというのである。そのことが、本書ではいろいろな実験によって明らかにされている。
本書を読んでいくと、いかにわれわれが錯覚に取り囲まれて生活しているか、ということを、痛烈に思い知らされる。もちろんそうした錯覚は、理由なく人間に「備わっている」わけではない。錯覚があるからこそ、われわれは面倒くさく時間のかかる地道な論理的思考をとばして物事をすばやく判断し、不十分な情報から一定の結論を引き出し、仕事や生活をこなしていくことができるのだ。いわば錯覚とは、認知にかかるエネルギーを節約するためにデフォルトで備わった「ショートカットキー」なのである。
したがって、こうした錯覚をすべて排除することは難しい。必要なのは、自分自身や周囲の人間がどれほど錯覚しやすい存在なのかを熟知し、とくに例外的な事態や緊急事態に置かれた時、すぐに結論に飛びつかないよう注意することだ。さらに、錯覚する存在として自分や他人を捉えることは、案外、寛容な人間観をもつことにつながるように思う(少なくとも、すぐ人をウソツキ呼ばわりしたり犯罪者扱いすることを予防できる)。どうせ誰だって、どうしようもなく間違えやすいし、間違えたことに気づかない生き物なのだから。
本書は、錯覚という現象を通してこうした人間観をはぐくむことのできる一冊だ。とはいっても難しいところはいっさいなく、具体的な事例がたっぷり載っており、解説もユーモアに満ちた分かりやすいものになっている。いわば日常生活を舞台にしたトリックアート集のようなもので、パラパラと事例を読むだけでも面白い。おススメです。