【1201冊目】鴻巣友季子『翻訳のココロ』
- 作者: 鴻巣友季子
- 出版社/メーカー: ポプラ社
- 発売日: 2008/12/05
- メディア: 文庫
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今を時めく翻訳家にして、本の目利きとしてもスゴウデの著者が綴る「ホンヤク咄」。ホンヤクとは何ぞや、との問いに始まり、実際の翻訳苦労談、さらには柴田元幸氏との対談もついている。
とにかく圧巻だったのは、本書の中ほどを占める『嵐が丘』翻訳秘話。リアルタイムでの翻訳プロセスが、イギリスへの取材旅行と重ね合わせて語られているのだが、特に6話25ページにわたる「ホンヤク・ワイン道場破り」がものすごい。なにしろここで書かれているのは、『嵐が丘』中の一文 "Joseph,take Mr.Lookwood's horse;and bring up some wine."のなかの"wine"という一単語をどう訳すべきか、ということ、ただそれだけなのだ。
そのことを、著者は過去の翻訳例を5パターンも引用し、ワインの本場フランスでリサーチし、イギリスにおけるワインの位置づけなどを調べつつ、ひたすらに考える。このわずかな一文、一単語に、これほどのエネルギーと思考が投入されているということに、びっくりした。おそらく実際にこの鴻巣訳『嵐が丘』を、このくだりを知らずに読んだとしたら、ここの一文など、さらっと通り過ぎて印象にも残らないにちがいない。もちろん、著者もそのことは百も承知。承知のうえで、それでもこの一文のニュアンスにここまでこだわり抜くのである。
こんなプロセスが、多かれ少なかれすべての文章で繰り返されて、ようやく一冊の翻訳本ができあがるのだから、翻訳家の仕事とはなんとすさまじいものであることか。そして、できあがった一冊が、なんと大量の思考と感性と汗と涙の染み込んだ文章で組み上げられていることか。なんとも気が遠くなる話であるが、そこにまた翻訳家ならではの発見もあり、醍醐味もあり、楽しさもあるのだろう。
一般に、外国の作品を読んでいると、原著者に比べて翻訳者はどうしても一歩下がった位置にいるような印象がある。しかし、翻訳のウマヘタが、元々の本そのものの値打ちさえ変えてしまうくらいの力を発揮する(良い意味でも悪い意味でも)ことがあるのはご存知のとおり。実際、例えばシェイクスピアを読むなら、福田恆存訳、小田島雄志訳、坪内逍遥訳などのどれを選ぶかは大問題だし、前にゲーテのファウストを読もうと思った時も、森鴎外にはじまり高橋義孝、高橋健二、手塚富雄から最近の池内紀訳まで百花繚乱でさんざん迷った(結局鴎外訳にしたのは、単に一冊にまとまっていたから。そういえば、最近荒俣宏訳が出ていた。また迷うタネが増える……)。
最近ではポール・オースターの『シティ・オブ・グラス』が某訳者の有名なクソ訳で死んでいたのを柴田元幸氏が救い出して『ガラスの街』として訳し直したり、村上春樹の訳業でフィッツジェラルドやレイモンド・カーヴァーが読まれるようになったりしている。光文社古典新訳文庫など、翻訳そのものに焦点を当てるという発想が大当たりしたシリーズだろう。やや古いところでは、堀口大學の訳業など、ほとんど新たな文芸の創造に近い。
だからこそ、翻訳者にはもっとスポットライトが当たるべきだと思うし、その意味で鴻巣さんのような方がどんどん活躍してくださるのはうれしい限り。ちなみにこの方、「読み手」としての目もすばらしく、自分の経験上も、鴻巣さんがおススメする本にはほとんどハズレがない(最近は『半分のぼった黄色い太陽』がすばらしかった)。さて、それでは、10年ほど前に途中で挫折した『嵐が丘』を読みなおしてみようかな。もちろん、鴻巣訳で。