自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1109冊目】マイケル・サンデル『公共哲学』

公共哲学 政治における道徳を考える (ちくま学芸文庫)

公共哲学 政治における道徳を考える (ちくま学芸文庫)

最近、読書ノートがどんどん長くなっているような気がするが、今回も少々長い。申し訳ないが、よければお付き合いください。

さて、本書はNHKの「ハーバード白熱教室」ですっかり有名になってしまったサンデル教授の、思想のエッセンスが詰まった一冊。

さまざまな議論が展開されているが、軸になっているのはミルやカントからロールズに至るリベラリズムへの検討と反論だ。特にカント主義的リベラル派の「《正》を《善》より優先する」というテーゼが問題となる。

ただ、この《正》と《善》の違いが分かりにくい。というか、日本語だけ読んでも両者の意味の違いはまったくわからない。これはたぶん訳語の問題もあると思う。原典をあたっていないので推測なのだが、《正》はおそらくrightであって「権利」という意味合いが強いような気がする(実際、この議論の初出のところでは「正[権利]」とされている)。また、場所によっては「《権利》と《善》」という言葉が使われているところもある。つまり読み方としては、《権利》と《善》の関係が問題になるとみたほうがよさそうだ(まあそれでも、あまり分かりやすくはないかもしれないが)。

さて、リベラル派が主張するのは、政治は価値中立的であれ、ということである。その前提となっているのは、個人の尊重だ。それぞれの個人がもっている価値観や主義、信仰、あるいは嗜好、性癖などに対して、国家は口をはさんではならない。それがリベラリストたちの主張の根幹である。したがって、さきほどの《正(権利)》と《善》でいえば、政治は何が善であるかの判断はいったん「カッコに入れ」、それよりも個人の権利=正を優先、尊重すべきである、ということになる。

確かにこの議論には説得力がある。じっさい、これは近代市民主義思想のひとつの到達点であって、たとえば日本国憲法の根幹となっている「幸福追求権」はこの理念を体現したものだ。しかし、サンデルはこの理念の価値をいったんは認めたうえで、その問題点を指摘していく。

本書のいろんなところでいろんな形の指摘が行われているので、ここでいくつかにまとめることはなかなか難しいのだが、読んでいて印象に残ったところを挙げれば、まずこうしたリベラリストの言う「個人」は、さまざまな関係性から切り離されたばらばらの存在であり、そんな個人の「原子化」こそが、皮肉にもリベラリズムの対極的存在である全体主義の温床になる。むしろそれより、個人が帰属するコミュニティなどを、その価値観(何が「善」かという判断)ごと受け入れていくことが先決だ、という主張がなされる。もっともこの主張、この後に出てくる「熟議」というもうひとつの主張とやや矛盾している気がしなくもないが……。

全体主義の衝動は、確固とした位置ある自己の信念から生じているわけではない。そうではなく、ばらばらにされ、居場所を失い、フラストレーションを抱えた自己の困惑から生じているのだ。こうした自己は、共通の意味が力を失った世界で途方に暮れているのである。…(略)…公共生活が衰退するかぎり、われわれは共通の充足感を徐々に失い、全体主義を解決策とする大衆政治に陥りやすくなる。」

さらに、《善》について多元主義的な考え方ができるのであれば、《正=権利》についても「理にかなった多元主義の事実」が存在するはずだ、と指摘される。確かに、権利といってもありとあらゆるものを認めることは難しく、実際には、「認めうる権利」と「認められない権利」というものが出てくることが予想される。

となると、その峻別にあたっては一定の価値観が否応なく登場せざるをえないのであって、それを《善》についてはシャットアウトするが、《正=権利》については認めるという非対称性は、実際にはありえない。結局、先ほど《正=権利》と《善》の違いが分かりにくいと書いたが、究極的には両者は限りなく近い、似通った概念なのかもしれない。

しかし、では個人は結局、コミュニティの価値観や習慣のドレイとなってしまうのか。確かに、いわゆる「コミュニタリアン共同体主義者)にはそうした批判が浴びせられることが多い。サンデルもまた一般には「コミュニタリアン」と言われることが多く、同じような批判を受けることがあるようだ。しかし、本書を読めば、必ずしもサンデルの考え方はそういうものではないことがわかると思う(ただ、先ほど挙げたように、それに近いことも別の場所で言っていたりするので、読み手としてはやや混乱する)。

サンデルが挙げているのは、「熟議」の重要性である。政治に道徳や宗教の理想を持ち込むことを拒絶し、個人の価値観を尊重するのがリベラリストの考え方であるとすれば、サンデルの考え方は「熟議型の相互尊重」を通してお互いの考えについて学ぶ、というものである。そこには、個人がそれぞれの価値観を抱え込んでばらばらに存在するのではなく、お互いの価値観をぶつけ合い、理解を試みようとする相互コミュニケーションが生まれ、その結果が共通善として政治過程に取り込まれるのである。大事なところだと思うので、ちょっと長くなるが、引用する。

「相互尊重をめぐる別の考え方━━熟議型と呼ぼう━━によれば、われわれは道徳や同胞市民の信念を尊重すべく、それらに関与あるいは留意する━━ときには批判して異議を唱え、ときには耳を傾けてそこから学ぶのである。それらの信念が重要な政治問題にかかわる場合はなおさらだ。熟議型の相互尊重を通じて、何らかの事例で合意が生まれるのかどうか、それどころか道徳や宗教をめぐる他者の信念が評価されるのかさえ、保証のかぎりではない。道徳・宗教上の教説について知れば知るほど、それが嫌いになるという可能性はつねに存在する。だが、熟議や関与を通じた相互尊重は、リベラリズムが認めるものよりふところの深い公共的理性を提供してくれる。それはまた、多元的社会によりふさわしい理想でもある。道徳や宗教をめぐるわれわれの意見の不一致が、人間的善の究極の多様性を反映するものであるかぎり、熟議型の相互尊重を通じて、われわれは多様な生が表現する固有の善をよりよく理解できるようになるだろう」

う〜ん、でもわれわれに、そんなことが可能なんだろうか……と思われる方も多いだろうが、そこで思い出したのが、あの話題になった「白熱教室」や、それを書籍化した『これからの「正義」の話をしよう』である。あのエキサイティングな、講義というよりも議論の応酬、質問と意見のハイスピード・ラリーこそが、まさに本書でいう「熟議」のひとつの実践だったのではないか、と思うのだ。ひいては、あのやり方そのものが、実は、公共哲学をめぐるサンデルの「方法」そのものだったのではないだろうか。

あの番組でサンデルは、決してひとつの答えに誘導しようとしたり、自説を強引に押し付けたりはしていない。だから私は本書を読むまで、あれは「ああいう授業」なのであって、サンデルの思想はまた別にあるのだと思っていた。だが、どうやらあのような「熟議」のプロセス自体が、サンデルの思想の一部なのかもしれない。

さらに深読みすれば、あの授業こそが熟議のエクササイズであって、サンデルはハーバードの学生にあのような授業を行うことで、アメリカがリベラリズムを超克するための跳躍台を準備しているのかもしれない。ちなみに本書でも、第2部でさまざまなテーマ(自殺幇助、アファーマティブアクション、同性愛、妊娠中絶、裁判への被害者参加……)をめぐってサンデルが議論を展開している。いわばサンデル講義のソロリサイタル版。いずれも身近なテーマながら、なかなかエキサイティングで面白い。

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業(上)ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業(下)NHK DVD ハーバード白熱教室 DVD BOX [DVD]