自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1093冊目】夏目漱石『それから』

それから (新潮文庫)

それから (新潮文庫)

最初に読んだのは大学生の頃。その時の印象はあまりよく覚えていないが、この年になって読むと、なんとも身につまされるものがあった。

主人公の代助は、30歳にもなって職にもつかず、父親の仕送りで遊び暮らしている。高等遊民を気取り、何もしないくせに理屈付けだけは馬鹿に巧い。金を稼ぐために働くことを軽蔑しつつ、人に稼いでもらった金で暮らしている。職なんぞまともに探したこともないのである。

独り身である。結婚を勧められるが、踏みきれない。むしろ友人の妻である三千代に惚れている。というか、もともと三千代が好きだったのに、ええかっこしいで友人に譲ってしまったのである。そのくせ、今になって三千代に横恋慕し、夫の目を盗んで告白する。困ったチャンである。三千代も代助のことを憎からず思っているが、自分にはすでに夫がいる。おそらくはそれで神経が追い詰められ、三千代は病を得て寝込んでしまう。

ことほどさように、代助の「どうしようもなさ」は折り紙つきである。しかしその代助の姿が、なんだか読んでいて妙に身につまされるのである。なぜだろう。自分自身、代助のように親の金で遊んでいるわけではない。まがりなりにも、仕事もしてるし、結婚もしている。別にフリンしているわけでもない。

そういえば、でもそんな現状に、ときどき嫌気がさすこともある。ゼイタクな悩みだ、と言われるかもしれないが、仕事をして、結婚して、子どもがいて……という「まっとうな生活」なんて、はたして自分は望んでいただろうか、と思ってしまうのだ。仕事にしても、自治体職員なんて「お堅い」仕事以外にも、いろいろ選択肢はあったんじゃなかろうか。結婚だって、もうちょっと独身で遊んでいたってよかったかもしれない。もっと「偏」や「奇」に親しみ、そこに徹するような人生だってあったんじゃなかろうか。エトセトラ、エトセトラ。

では、そういう別の人生があったとして、はたして自分はどうなっていただろうか。そう思う時、本書の代助が浮かんでくるのである。代助の姿は、私が「こんなんじゃないはず」だと思っている時の、まさに「もうひとつの人生」の成れの果てなのかもしれないのだ。実際、自分の性格を思うと、「代助」的な部分がいくつも思い当たる。本書を読んで身につまされるのは、そういうことなんじゃないだろうか。文学史的な「正しい」読み方は知らないが、私にとってこの代助という人物、そういうわけで他人事じゃないリアリティがあった。他の事はすっかり吹き飛んでしまい、あいにくよく覚えていない。

「彼は元来が何方(どっち)付かずの男であった。誰の命令も文字通りに拝承した事のない代りには、誰の意見にも露(むき)に抵抗した試(ためし)がなかった。…(略)…然しその原因の大部分は策略でもなく、優柔でもなく、寧ろ彼に融通の利く両(ふた)つの眼が付いていて、双方を一時に見る便宜を有していたからであった。かれはこの能力の為に、今日まで一図(一途)に物に向って突進する勇気を挫かれた。即(つ)かず離れず現状に立ち竦んでいる事が屡(しばしば)あった。……」

ああ、耳が痛い。