【1092冊目】ダニエル・ペナック『奔放な読書』
- 作者: ダニエルペナック,Daniel Pennac,浜名優美,浜名エレーヌ,木村宣子
- 出版社/メーカー: 藤原書店
- 発売日: 1993/03
- メディア: 単行本
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我が家では、子どもが2歳くらいの時からずっと、寝る前に「読み聞かせ」を続けている。上の子はもう小2だから、5年くらい続けていることになるだろうか。書かれていることの意味を問うわけでもなく、ただ子どもの読みたがる本を、絵本なら一冊、最近は長い物語を一章ずつ。あまり深い考えなしにやっていたこのことが、どうやら子どもと本の関わりのためには、とても大切なことであったらしい。
テレビやゲーム、インターネットがあふれる世の中だからこそ「最近の若者は本を読まない」「本を読むべきだ」という主張をする人は多い。だがそうした主張の決定的な欠陥が、本書によって指摘されている。それは「義務づけられると、かえって人はそれを嫌いになり、遠ざかろうとする」という皮肉な事実である。
特に有害なのが国語の授業だ。これはフランスでも事情は同じらしいが、国語の授業は総じて「本嫌い」を生産するための時間のようなものだ。「正しく読みなさい」「何が書かれていたか説明しなさい」「主人公の気持ちを言い表しなさい」……。そんな問いを突き付けられ続けるうちに、子どもたちはいつしか「本」に対して劣等感をもち、あるいはつまらないものだと思い込み、義務の対象としてしか見なくなる。
実際、今になって思い返してみると、国語の教科書に載っていた作品には、実はかなりスグレモノが多い。だが、それを授業中に読んで面白かったという記憶は、残念ながらほとんどない。その理由はすでにお分かりのとおり……授業の中でそれを「型にはめ」「切り刻み」「持ち上げる」ことばかりをやってきたからだ。
もともと、多くの子どもは本好き、お話し好きであった。読み聞かせをやっていると「もっと読んで」「もう一回!」と言われることでよくわかる。だが大人が「本を読ませよう」「良い本を選んで与えよう」「その本の感想や意義を説明させよう」とすると……とたんに本は「つまらないもの」に変じてしまう。それは紛れもなくわれわれ大人の罪なのだ。
では、そうした子どもたちを再び「本好き」にするには、何をすべきなのか。本書で紹介されている授業では、ただひたすら小説を読むことでこれを実践してみせた。その文学史上の位置づけや、作家の人生などを説明したり、終わった後で要約や感想を求めたりすることなく、ただひたすら一時間読み続ける。ちなみに本書で例に取り上げられているのは、パトリック・ズュースキントの『香水』。最近映画化もされた、前代未聞の「悪臭小説」である。なるほど、これを読みあげられたら、確かに興味を持たないことのほうが難しい。
「読書と和解するための唯一の条件、それは読書と引き換えに何も求めないことである」
至言である。
さて、本書は読書嫌いの人だけでなく、読書好きの人にとっても有益だ。特に「本を読む時間」についての考察が面白い。著者はこう語る。
「本を読む時間は、つねに盗まれた時間である」
これも至言。しかし、ではどこから盗むのか?
「たとえば生きる義務から」
そして、著者はこう続ける。
「本を読む時間は、愛する時間と同じように、人生の時間を広げる。
もし時間の使い方という観点から愛というものを考えなければならないとしたら、いったい誰がわざわざ愛に手を出そうとするだろうか。誰が恋する時間を持つというのか。しかし愛する時間を持たない恋人など見たことがないではないか。」
「読書は社会の時間の構造には属さない。それは愛と同じで一つのあり方だ」
……素晴らしすぎて本書の白眉「読者の権利10カ条」を紹介するのを忘れてしまったが、これはネット上でも探せば出てくると思うので、あえてここには書かない。とにかく、もっと自由に、もっと奔放に! それこそが、実は読書の「奥義」なのである。読書嫌い必読。読書好き必読。そして何より、全国の国語教師必読。
ちなみにこの本、図書館で標記タイトルのものを借りて読んだのだが、今amazonで検索したら次のタイトルで再刊されている模様。同一内容なのか確認していないので、一応下に挙げておく。
- 作者: ダニエルペナック,Daniel Pennac,浜名優美,浜名エレーヌ,木村宣子
- 出版社/メーカー: 藤原書店
- 発売日: 2006/10
- メディア: 単行本
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