自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1057冊目】雨宮処凛『生きさせろ! 難民化する若者たち』

生きさせろ!難民化する若者たち (ちくま文庫)

生きさせろ!難民化する若者たち (ちくま文庫)

この人は、実は私と同世代。それだけに、ここに書かれていることは、まったくヒトゴトではない。本書に登場するフリーター過労死するサラリーマンは、一歩間違えば私自身の姿なのだ。私と彼らは、ホントにうす〜い紙一重の偶然で隔てられているにすぎない。

前門のホームレス、後門の過労死。今の20〜30代の状況をひとことで言うと、こういうことだ。それは本書のタイトル「生きさせろ」に端的にあらわれている。今の日本は戦場である、と著者は断言する。それは生きることそのものをめぐる闘いである。路上生活にも陥らず、過労死過労自殺にも陥らずに生きのびること自体が、今の日本の若者にとっては針の穴を通るほどにも難しい。

プレカリアート、という言葉がある。本書で紹介されているのだが、"Precario"(不安定な)+"Proletariato"(プロレタリアート」を結びつけた造語である。単に安月給でこき使われている、というだけではないニュアンスが、そこには込められている。不安定さ、いつクビを切られ、仕事も住処もいちどきに失って路上に放り出されるかわからない。それがプレカリアートだ。それを著者は「不安定さを強いられた人々」と定義する。誰に強いられているのか。一言でいえば、資本主義という暴走する「構造」に、である。

もともと資本主義には、放っておくと暴走する性質がある。利潤の追求を至上命題とする中で、そこに働く人々がモノ扱いされ、生存ギリギリかそれ以下の水準まで追い込まれていく。それを告発したのがエンゲルスであり、マルクスであった。そこから萌芽した「共産主義」は、それはそれでいろいろな悲劇を生んできたが、一方で暴走する資本主義への歯止めになってきたのも事実である。労働者の「アカ化」を防ぐため、企業は労働者に一定以上の賃金と福利厚生を用意し、政府は福祉制度を整えた。

しかし共産圏が崩壊し、あるいは資本主義への移行を示す中で、再び資本主義の暴走が始まった。ネオリベラリズムとは要するにそういうことだ。レーガンサッチャー、日本では中曽根首相の民活路線、そして小泉・竹中の新自由主義的「改革」。しかもその小泉を支持したのは、彼によって地獄の底に叩き落とされることが目に見えているプレカリアートたち自身であった。

ここにこの問題の根深さがある。新自由主義の信奉者たちは、若者に向かって「自己責任」という。フリーターになるのも自己責任、ホームレスになるのも自己責任、過労死するまで働くのも自己責任。そして、フリーター自身もまた、その言説を受け入れてしまっている。夢を追いながら働いているのだから、給料が安くて不安定でも仕方がない、などと平気で言うのはそういうことだ。

しかし、そういった考え方自体が企業の思うツボであり、「使い捨て」の労働者を量産することにつながっている。そして、35歳を超えて夢を実現できる見通しもなく、仕事もなくなってきた時、彼らは路上生活に移行し、生活保護を受給し、あるいは自殺を図るのだ。

それもまた「自己責任」であると言うのだろうか。著者は断じて「否」という。そして叫ぶのだ。声をあげよ、団結せよ、闘え、と。実際、本書は「我々は反撃を開始する」ということばで始まる。本書は著者にとって、宣戦布告の書であったのだ。

本書には、実際に「闘う」ためのノウハウもたくさん詰まっている。生活保護を「勝ち取る」方法。労働組合を結成し、企業と闘う方法。中には「貧乏人大反乱集団」「高円寺ニート組合」の松本氏のような、前代未聞の「革命」を半ば成し遂げつつあるケースもある。事態は少しずつ良くなっている。しかしそれは、それまでに犠牲となった無数の非正規雇用者たち、過労死過労自殺した人々とその遺族が必死に戦ったからなのだ。

そして今、大震災のどさくさにまぎれて、また新たな「内定取り消し」「非正規切り」が横行している。雨宮処凛の戦いの幕は、まだまだ下りていないようである。