自治体職員の読書ノート

自治体で働くソーシャルワーカーが、読んだ本を紹介します。

【1049冊目】セルジュ・ラトゥーシュ『経済成長なき社会発展は可能か?』

「経済成長」「開発・発展」一辺倒に対する批判はいろいろあるが、本書の著者ラトゥーシュはその最先鋒のひとり。本書は、ラトゥーシュの代表的な著作2冊「〈ポスト開発〉という経済思想」「〈脱成長〉による新たな社会発展」を全訳し、さらにラトゥーシュへのインタビュー、訳者による60ページもの「日本語版解説」をパッケージしたサービス満点、ボリューム満点の一冊だ。

経済成長とグローバリズムが、社会のいろんなところにひずみをもたらすことは、もはや「常識」だろう。国内から地球規模に及ぶ格差問題、環境問題、エネルギー問題、共同体の解体……。問題は、こうした問題をどのように解決すべきか。これまで行われてきた議論の多くは、経済成長自体は自明の前提として、その中でどうにかしてその副作用を抑えていくというものだった。

典型的なのが、環境問題と経済成長を調和させるための「持続可能な発展」(sustainable development)というワーディング。しかしこれを、著者は「二律背反」であり、実在しない「白ツグミ」(日本式にいえば「白いカラス」だろうか)であると断言する。現実に行われていることは、せいぜい自然からの収奪を「減らす」程度であり、自然の回復力は生産の増加に到底追いついていないし、追いつけるという保証もなされていない。言いかえれば、「持続可能な発展」とは経済成長という「自明の前提」を環境保護の理念と矛盾させないためのおためごかしにすぎない。人々は二酸化炭素の排出量をちょっと減らした程度で「持続可能は発展」に取り組んでいると自分をごまかしているだけなのであって、本気で「人間の活動が生物圏の再生能力を超える水準の汚染を生み出してはならない」程度にまで経済活動を抑える覚悟も自信もありはしないのだ。

同じことは「南側諸国」と「北側諸国」の格差についてもいえる。南北問題についてよく言われるのが、格差問題の解決のためには南側諸国の経済発展が必要である、という主張だが、著者はこれにも疑問を呈する。そもそも「ポスト開発」の思想が生まれたきっかけのひとつが、開発の対象となっている南側諸国の人々の声であった。すなわち、経済成長と開発の導入こそが、南側諸国に格差や環境破壊、伝統的な生活や共同体の破壊をもたらした元凶なのであって、必要なのは開発を「持ち込む」ことより、むしろ経済成長というパラダイムから脱することである。そもそも経済成長や発展の考え方というのは、「もっとも進んだ」西洋文明を理想として、そこに向かうというものであり、世界中で経済成長と発展を求めることは、西洋文明の優位性をむしろ強化し、序列化を進めることにほかならない。これは、グローバリズムが常にアメリカ経済を強化するという構造も同じである。

著者によれば、「脱成長」の時代に必要なのは、均質化よりむしろ地域主義の強化である。地域が自律性を高め、生産や輸送にかかる無用なコストを減らすことが、結局は地球環境の維持にもつながってくる。つまり、イヴァン・イリイチの言う「ヴァナキュラーな(文化的な自律性を維持した)社会」の実現、あるいはカール・ポランニーの「経済に埋め込まれた社会」から「社会に埋め込まれた経済」への転換が、経済成長から脱成長へのパラダイムシフトをなしとげるためのカギなのだ。

日本ではどうか。民主党政権に変わったとき、多くの「識者」が「民主党には成長戦略がない」と言い出した。菅内閣は「新成長戦略」を掲げ、その「要請」に応えてみせた。その内容を見たとき「またかよ」とウンザリしたのを思い出す。日本国内でも、格差是正のためには経済成長を、という論理がまかりとおった時代があった。高度成長期にはそれがそれなりの成果を挙げたのは事実だろう。しかし、今は経済成長が逆に格差を拡大させている。石油エネルギーを節約しつつ、経済成長に必要な「電気」を供給するため、原発がたくさん作られた。

地震が起き、原発がたいへんなことになって、ようやくそんな状況に日本中が違和感をもちはじめているように思う。今後の日本社会のあり方についてこれからどんな青写真が描かれるのかわからないが、ラトゥーシュらの「脱成長」の思想は、日本でも今こそ省みられてもよいのではないか。その時には都留重人の経済学、玉野井芳郎の地域主義、鶴見和子内発的発展論などが、同時にあらためて思い出されるべきだろう。そうでなければ、ホントに日本は「お先真っ暗」である。