自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

地震今昔

「また、同じころかとよ。おびただしく大地震ふる事侍りき。そのさま、よのつねならず。山はくづれて、河を埋み、海は傾きて、陸地をひたせり。土裂けて、水涌き出で、巌割れて、谷にまろび入る。なぎさ漕ぐ船は波にただよひ、道行く馬は足の立ちどをまどはす。都のほとりには、在在所所、堂舎塔廟、一つとして全からず。或はくずれ、或はたふれぬ。塵灰立ちのぼりて、盛りなる煙のごとし。地の動き、家のやぶるる音、雷にことならず。家の内にをれば、たちまちにひしげなんとす。走り出づれば、地割れ裂く。羽なければ、空をも飛ぶべからず。竜ならばや、雲にも乗らん。恐れの中に恐るべかりけるは、ただ地震なりけりとこそ覚え侍りしか。」

「かくおびただしく震る(ゆれる)事は、しばしにて止みにしかども、そのなごり、しばしは絶えず。よのつね、驚くほどの地震、二三十度震らぬ日はなし。十日、二十日すぎにしかば、やうやう間遠になりて、或は四五度、二三度、もしは一日まぜ、二三日に一度など、おほかた、そのなごり三月ばかりや侍りけん」

鴨長明方丈記』)

今から800年ほど前の1212年(一説)、都を去って日野山に結んだ方丈の庵で、鴨長明はこのように自らの震災体験を綴りました。

書かれているのは、1185年の文治京都地震と言われています。マグニチュードは7.4ですから、ほぼ阪神淡路大震災級。今回の地震ほどではありませんが、それでも当時の京の町が崩壊してゆくさまを綴る筆致は、まるでここしばらくのテレビの画像をなぞるかのようです。後段は余震の描写でしょうか。なおこの両段のあいだにもうひとつあるのですが、今の状況でその悲惨な描写をここに写すことはさすがに気が咎めますので、自粛させていただきます。

長明は浮世のはかなさと虚しさを述べ立てる文脈のなかで、この地震を描写しました。しかしここには、もうひとつの教訓がひそんでいるように思います。それは、数限りなくこのような災害を受けてきつつ、それを乗り越えてきた歴史こそが、われわれ日本人の歴史であるということであります。今こそ、わたしたちがそのことを思い出すべき時なのではないでしょうか。

そしてもうひとつ。自然のすさまじい猛威を前にしたとき、私がきまって思い浮かべる文章があります。それを引用して、今回の記事を閉じたいと思います。

 人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。
 だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。われわれはそこから立ち上がらなければならないのであって、われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。

ブレーズ・パスカル『パンセ』)