【1014冊目】大石久和『国土学再考』
- 作者: 大石久和
- 出版社/メーカー: 毎日新聞社
- 発売日: 2009/02/20
- メディア: 単行本
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職読。以前読んだ『国土学事始め』の著者の本。雑誌での連載をまとめたらしく、内容は前著とやや重複気味。良く言えば、前著の内容を展開し、より深めたものになっている。前著では日本の歴史と国土特性から公共事業の必要性が説かれていたが、本書で軸足が置かれているのは「日本人」論。特に後半部分は「国土学」というよりほとんど「国民学」である。
議論の起点になっているのは、「侵略の歴史」をもつ西欧や中国と、「天災の歴史」をもつ日本、という比較の視点。前者は襲撃者から身を守るため、都市を城壁で囲ってその中に住むことを余儀なくされた。そこで必要とされたのが強力なリーダーであり、厳格なルールであり、積み重なる歴史の上に現在があるという視点であった。
いっぽう日本では、人間の侵略より天災こそが最大の脅威だった。しかし侵略と異なりいつ起きるか分からない天災が相手では、備えるにも限界がある。むしろこれを甘受し、変化を当たり前のものとして受け止める心性が必要だった。ゆえに長期的計画より場当たり的で臨機応変な対応が優先され、歴史は「流れるもの」「無常」であるとされた。また、村落共同体が基本的な生活の単位であったため、共同体的な小組織では無類の強さを発揮するが、知らない人同士が連携し、ルールをつくり暮らすことは苦手。ルールはむしろ柔軟に解釈し、曖昧な決着で円満に暮らしを営む。著者はその特性を「情緒主義」「臨機主義」「円満主義」と定義する。
問題はそんな日本人が「都市」に住み、外交などというものをやらざるをえなくなったこと。いわば日本的な心性はそのままに、西欧的なスタンダードと折り合いをつけなければならなくなったのだ(この発想も「日本人的」?)。だからと言って、明日からいきなり西欧人になる、というわけにもいかない。大事なのは自分たちの特徴を自覚し、「われら」と「かれら」の違いをわきまえること。鎖国の時代にも村落共同体の時代にも戻れない以上、日本人はそういう自覚と覚悟が必要なのである。