【986冊目】今村晴彦・園田紫乃・金子郁容『コミュニティのちから』

コミュニティのちから―“遠慮がちな”ソーシャル・キャピタルの発見
- 作者: 今村晴彦,園田紫乃,金子郁容
- 出版社/メーカー: 慶應義塾大学出版会
- 発売日: 2010/06/20
- メディア: 単行本
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「”遠慮がちな”ソーシャル・キャピタルの発見」という副題が気になって読んでみた。内容はコールマンやパットナムのソーシャル・キャピタル論の「日本版」。日本におけるコミュニティ・ソリューションの実例を通して、そこに働いているソーシャル・キャピタルの様相をさぐっている。
パットナムがイタリアの州を比較して導きだした「ソーシャル・キャピタル」は、どちらかというと地域に対する主体的で積極的な活動を指すことが多い。一方、著者たちが日本各地の「うまくいっているコミュニティ」を観察した結果、見えてきたのは、ヨーロッパ型の自発的で主体的なものとは異なる「遠慮がちな」ソーシャル・キャピタルであった。
例えば、長野県の老人医療費減少に大きな役割を果たしているといわれる保健指導員は、地域内でほとんど持ち回りのようにして順番が回ってくる。もちろん事情があれば断ることはできるが、たいていは仕事が他にあろうが引き受ける。それも自発的に手を挙げるというよりは、「私などでよければ……」という「遠慮がち」なスタンスで。日本各地のコミュニティ活動の多くは、こうした持ち回り的な平等性と、その役割を「遠慮がちに」引き受ける「謙虚な担い手」によって成り立っていると推測される。
こうしたあり方は、一歩間違えば地域住民の自主性や個人主義的な意識を無視した、古い因習のひとつと捉えられかねない。とりわけ「自立した個人」を前提とする市民主義的な立場からすれば、こうしたシステムなどとんでもないと映ることだろう。確かにそうした面がまったくないとは思わない。しかし一方で、このような地域の力、コミュニティのつながりの力が実際に住民の健康意識を高め、地域の生活を生き生きとしたものにしている可能性も考慮されるべきだろう。コミュニティ活動と個人の意思の尊重のバランスを図ることは確かに重要だが、こうしたやり方でないと発露しない「遠慮がちなソーシャル・キャピタル」が、長野県だけではなく、多くの地域に潜在している(と思われる)ことも忘れてはならないと思う。
問題は、そうした地域の「眠れるソーシャル・キャピタル」をどのように引き出し、「いいコミュニティ」をつくっていくかだ。本書では「4つのレシピ」と「7つのツール」を挙げている。いずれもなかなか示唆的で、自分の勤める自治体や、自分の住む地域ではどうだろうか、と考えるのにちょうどよい(なお、以下はかなり自己流に要約してしまっている。詳しくは本書を読まれたい)。
【4つのツール】
1 「イニシエータ」(新しいことを始める人)だけではなく、「フォロワー」を含む多くのロール(役割)を用意し、それが機能するための「ルール」と「ツール」を提供する。(遠慮がちな人々の多くは、まずは「フォロワー」として参加する)
2 地域のフォーマル組織を巻き込み、仲間に引き入れる。(地方行政組織を活用する)
3 「制度を作るロール」と「制度を活用するロール」を区別する。
4 全体の流れ(新しい動きを作り出し、周囲に働きかけ、公的組織にも参加してもらう)がうまく回るように、「ルール」「ロール」「ツール」を意図的に設定し、実践する。
【7つのツール】
1 コミュニケーションを良くする
2 きっかけをつくり、誘い、巻き込む
3 一緒に汗をかく
4 自分から動く
5 成果を可視化し、共有する
6 論理で正面突破する
7 実践を促進するためのルールをつくる