【959冊目】ちくま日本文学002 芥川龍之介
- 作者: 芥川龍之介
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2007/11/20
- メディア: 文庫
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切れ味鮮やかな、達人の技を思わせる。ユーモラスで、アイロニカルで、軽妙で、真摯な名品が並ぶ芥川フルコース。
このシリーズは3冊目。内田百間、樋口一葉と読んできて今度は芥川だが、相変わらずセレクションが良い。ちなみに本書に収められているのは「トロッコ」「蜜柑」「お時儀」「鼻」「芋粥」「地獄変」「藪の中」「杜子春」「奉教人の死」「開化の殺人」「魔術」「ひょっとこ」「玄鶴山房」「枯野抄」「河童」「或阿呆の一生」、そして俳句や詩篇。
既読と未読がだいたい半々くらいかな。「羅生門」「歯車」などが抜けているし、後年のキリスト教モノが「奉教人の死」ひとつしかないのも気になるが、まあそういうことを言い出したらきりがないので…。むしろ、これまで名前は知ってたのに読む機会のなかった「地獄変」や「或阿呆の一生」が読めたのがよかった。
子どものころに読んだ芥川龍之介の作品で、一番強烈に覚えているのは、「蜜柑」のラスト、少女が汽車の窓から放った蜜柑が暮れなずむ空を舞う鮮烈なシーン。子供ごころに「おおっ」と思い、そのシーンは目で見たように焼き付いている。
しかし、今読み返して驚いたのは、そのシーンに向けた著者の周到きわまりない用意の仕方だった。小説の中盤までは、田舎風丸出しの少女に対する「私」の不快感がひたすらつのっていく。3等の切符をもって2等の座席に座っていること。トンネルの中にも関わらず窓を開けて、「私」もその部屋も煤まみれにしてしまったこと……。
しかし、そうした少女への不快がピークに達したその瞬間、「霜焼けの手」から放たれた蜜柑が鮮やかに宙を飛び、「私」は一切を了解する。汽車から蜜柑を投げること自体は、べつにたいしたことじゃない。しかし、その行為ただ一点で、小説全体がぐるりと旋回し、これから子供たちを置いて働きに出るであろう田舎の少女への想いのようなものがわいてくる。
本書にも収録されているが、芥川にこんな俳句がある。
木がらしや目刺にのこる海のいろ
これなのかもしれない、と感じた。ちっぽけな目刺を通じて大海を感じさせるのが、芥川の小説なのではないか、と。先ほどの「蜜柑」でいえば、目刺が蜜柑であり、そこに感じられる海のいろは、さて、何だろうか。少女の人生か。田舎の郷愁か。「私」の狭量さか。いずれにしても、芥川は海そのものを決して書かず、「目刺」や「蜜柑」ばかりを描くことで、その向こう側に海を感じさせようとしていた作家であったと思う。
そう、芥川の小説で書かれているのは、本当にちょっとしたことなのだ。大きい鼻を持て余す僧とか、芋粥を腹いっぱい食べるのが夢の侍とか、あるいは「杜子春」や「魔術」のような「気がつくと夢」というパターンなどでも、小説の中に仕込まれているのは、ほんの小さなトリガーだ。しかしそのトリガーが、実は広い世界につながり、人間心理の深奥に至る通路になっている。今読み返すと、あらためてその凄みに気づかされる。