自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【946冊目】石牟礼道子『苦海浄土第二部 神々の村』

苦海浄土〈第2部〉神々の村

苦海浄土〈第2部〉神々の村

水俣病になったことも地獄なら、水俣病を抱えての暮らしもまた、地獄であった。一人一人の人間を襲う痛切のきわみの奥底に光る、文明や科学への対抗論理。

以前読んだ『苦海浄土』の続き。全三部のうちこの第二部だけが未刊だった(第三部『天の魚』は以前、講談社文庫で刊行されたらしいが……あれ? もう絶版になったのかな? 全集には入っているみたいだけど……。ちなみに第二部も全集には前から入っている)。水俣病発症の過程をつぶさに追った第一部に対して、こちらはその後の補償交渉、さらには訴訟に向かう中で、孤立を深めていく患者や家族たちの痛切を描く。

その中で、原因企業のチッソ厚生労働省の冷たさもさることながら、読んでいて一番つらかったのは、隣人である水俣市民の繰り返した誹謗中傷。たとえば、こんな具合に。

「…あの病気にかかったもんは、腐った魚ばかり食べる漁師の、もともと、当たり前になか人間ばっかりちゅうよ。好きで食うたとじゃろうもん。自業自得じゃが。会社ば逆うらみして、きいたこともなか銭ば吹きかけたげなばい。市民の迷惑も考えず、性根の悪か人間よ。あやつどんは、こう、普通の人間じゃなかよ。見せものに売ってよかよな化けもん子を持っとる親じゃもんな。銭の欲しかれば、子ば、売らじゃ」
「会社がせっかく銭出して呉るるちゅうとにその上の欲出して、裁判のなんの。見さかいのなかけんな、おとろしかよ。はしか犬(狂犬)と同じじゃ。水俣の恥ばい、ああいう人間どもが居って呉れては」

水俣市民出て来い! と叫びたくなるような、人間としてサイテーの言葉の羅列である。しかし、それは水俣市だけでなく、日本のいたるところで「市民」たちによって繰り返されてきた言葉なのかもしれない。時には被爆者に対して。時にはハンセン氏病患者に対して。時には被差別部落の人々に対して。

いずれにせよ、こうして、患者たちの敵は国であり、大企業であり、そして周囲の「市民」であった。そして、そんな状況の中で、補償額の決定を国が選んだ委員に一任せよ、という「確約書」が患者たちに突きつけられ、捺印を迫られる。応じたのが「一任派」、反発して訴訟による解決を望んだのが「訴訟派」と、この確約書をめぐって患者団体は二分される。

もっとも、裁判にしても出てくるのはチッソの代理人である弁護士ばかり。解決が得られるとしても、それはいくばくかの金銭にすぎない。そして、それが文明社会の「ルール」なのだ。それに従っているかぎり、患者たちはその枠内での解決しか得られない。

そこで患者たちは、裁判を続けるかたわら、なんとチッソの株を買って株主になり、社長や幹部が居並ぶ株主総会に出席することを決め、そして実行してしまう。しかも、総会におもむく患者たちは白装束に身を包み、「恨」の一字を染め抜いた黒いのぼり旗をたくさん立てて大阪の地を練り歩くのだ。その前ではいかなる文明のルールも無力であり、司法制度によって守られていたチッソの社長は患者たちの前に引きずり出されることになる。

そこには文明の論理、経済の論理のおそるべき逆倒がある。制度とカネで何でも解決をつける「現代的」なシステムは、生命をそのために燃やしつくし、タマシイを賭して現れた患者たちの「人間としての力」に、到底太刀打ちできない。そして株主総会で一暴れした後、患者たちは故郷の水俣に帰ってゆく。文明の地を去って、自然と共に生きる庶民の暮らしに回帰するのだ。またねじれた手足で歩き、親や子どものオムツを換え、水俣病とともに終わりなき日々を過ごすために。その姿は本書のサブタイトルにもあるとおり、水俣の自然の中に住む「神々」のように尊いと思う。