自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【856冊目】瀬田貞二『幼い子の文学』

幼い子の文学 (中公新書 (563))

幼い子の文学 (中公新書 (563))

自分のなかで「瀬田貞二」と言えば、中学の頃夢中になったトールキンの『指輪物語』やその前身の『ホビットの冒険』の訳者というイメージが強いのだが(C.S.ルイスの『ナルニア国ものがたり』もこの人の訳らしい)、実は日本における児童文学の大御所のひとりでもあって、『ふるやのもり』や『お父さんのラッパばなし』などの絵本創作、『三びきのやぎのがらがらどん』などの児童絵本の翻訳も手がけているらしい(そう言えば、うちにある『ブレーメンのおんがくたい』も「やく せたていじ」となっていた)。本書はその瀬田氏が、都立日比谷図書館で月に一回、二十数名の児童図書館員を前に行った「おはなし」を採録したもの。

扱われているテーマは「物語の類型」「なぞなぞ」「童唄(わらべうた)」「童謡」「幼年物語」と多岐にわたり、どの話にも瀬田氏ならではの価値観と考え方がきらりと光っている。例えば「なぞなぞ」では、小学生の息子さんが国語の教科書に書いてあった「なぞなぞ」の話を読んでいるのを聞いて腹が立った、というところから話が始まる。なぜ腹が立ったかというと、そこに書かれていたなぞなぞは「『なぞなぞ遊びをしましょう。まずぼくが出しますよ。一日じゅう両手で顔をなぜているものは何でしょう』『はい、それは時計です』……」と会話で続いていくものだったのだが、そこには言葉の洗練がない、リズムがない。これじゃ単なる「クイズ」である、と。本来のなぞなぞというのは、「もっと耳に快い言葉で、しかもその中に、イメージを鋭く呼び起こすだけのいろいろな要素が入っている」ものであるというのである。

そう前フリをしておいて、実際にその実例となるような「なぞなぞ」の例をどんどん出していくのだが、これが確かに「これぞ、なぞなぞ!」と膝を打ちたくなるくらいの見事なものばかり。例えば、次のようなもの。正解、わかりますか。答えは本書をお読みください。

「ナンシー・エチコートちゃん
 白いスカートに赤っ鼻で、手足なし
 立っているのが長いほど、短くなっていく」(マザー・グースより)

「すんずり姫こが立てた謎、かんずり姫こはとけないで、朝日長者がといたなんぞ」(『五戸の方言』より)

「晩にざしきの散らし米」(同)

「なぞなぞ、なんだ
 木よりも高いが、根を見た者なし
 ぐんとそびえて、のびっこないもの」(『ホビットの冒険』より)

また、物語の類型では、「行きて帰りし物語」というのがひとつの基本モチーフとしてあるという。また、その過程でどのように物語が膨らみ、進展していくかがカギであると。それがなくて単に行って帰ってきただけ、というのは(そういう絵本もたくさんあるが)、ダメだと。それはやはり、基本構造は使い古されたものでも、その中にどんな物語を盛るかが大事なのだ、ということだと思う。そこに単純だが強い力が内包されていなければならないんだ、と。

童唄や童謡などについても同じである。玉石混交になりがちな子供向けのこうしたものほど、実は小手先のごまかしやいいかげんが効かず、よいものとそうでないものがはっきりと分かれてくる。その「分け目」を著者は、図書館の職員に向けて懇切丁寧に、時には絵本まるごと一冊を文字通り「読み聞かせ」ながら説いていく。それはなんとゼータクな講義であることか。著者ならではの「幼い子の文学」に向けた愛情と信念が感じられる一冊。