自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【813冊目】アラン・ムーア&エディ・キャンベル『フロム・ヘル』

フロム・ヘル 上

フロム・ヘル 上

フロム・ヘル 下

フロム・ヘル 下

異形のグラフィック・ノベル。モノクロームの世紀末。

舞台は19世紀末のロンドン。切り裂きジャックのおぞましい犯行を縦糸に、混沌と汚濁に満ちたロンドン市そのものを横糸に、陰惨な世紀末を描き出す。

3×3の定型的なコマ割り、日本の現代コミックの水準から比べるとお世辞にも上手いとは言えない画、横書きの読みづらいフキダシ……と、最初はとっつきづらさが先にたった。物語の筋がなかなか見えないまま断片的なイメージが先行するのも、妙に抽象的な議論が出てくるのも、なかなか入り込めない要因であったかもしれない。

しかし徐々に物語が動き出し、特にガル医師がロンドン案内をして五芒星形を描き出すあたりから、ロンドン市そのものが不気味に立ち上がり、読み手はその中に引きずり込まれる。19世紀末の都市の裏路地の薄暗がり、妖しくそそり立つ巨大な塔の下でうごめく貧しい人々。なるほど、この独特の画のスタイルは、都市の闇と影そのものを描き出すにはむしろ絶好かもしれない。その中で展開される目を覆うばかりの凶行も、ガルのすさまじい幻視も、すべてはロンドンに潜む澱の一部。さらに時間すら十重二十重に重なり合う。「第4の次元とは何か」という独白じみたテーゼによって、ロンドンというひとつの「空間」における、多重多元的な「時間」の移動が引っ張り出される。

驚くのは巻末に附された膨大な「解題」。なんと各ページごとに、そこに周到に織り込まれた「意味」が記されている。なんとこの本は、意味と象徴が無数に隠され暗示された巨大な騙し絵であり、あらゆる彫刻や絵画が巨大な物語構造をつくりあげているゴシック建築の教会やイスラームのモスクのような、「隠された物語」を秘めていたのだ。切り裂きジャックスプラッター・ホラーは、いわば本書の「A面」。その裏側に、とてつもないメタ物語の「B面」があったのだ。したがって、本書は再読必須。一度見たはずの光景が、ぜんぜん別の意味をもって立ち上がってくる。