自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【716冊目】朝永振一郎『物理学とは何だろうか』上下

物理学とは何だろうか〈上〉 (岩波新書)

物理学とは何だろうか〈上〉 (岩波新書)

物理学とは何だろうか〈下〉 (岩波新書 黄版 86)

物理学とは何だろうか〈下〉 (岩波新書 黄版 86)

物理学と言えば、数学や化学と同じく「高校以来の再会」。しかもかなりできの悪いほうの生徒であった。そのレベルで、入門書とは言え量子力学の泰斗でノーベル賞受賞者の著作を読もうというのだから、これは「ねこふんじゃった」のレベルでルービンシュタインにピアノの初歩を教わるようなもの。しかし、これが成り立つのだから本の世界というのは自由なものである。

 そういうわけで、おそるおそる手にした岩波新書の2冊なのだが、これが読んでびっくり、のわかりやすさと明快さであった。ケプラーからガリレオ、ニュートンと、古典物理学の基礎の基礎のようなところから、実に丁寧で着実にときほぐしてくれている。何より、叙述がきわめてロジカルで厳密ながら、それを感じさせないほど文章がやわらかい。端正、という言葉を思い出した。

 さらに内容は熱力学のカルノーから、高校時代に習った記憶もかすかな、怪獣のような名前のドルトンの原子論、アボガドみたいなアヴォガドロのアヴォガドロ定数を経て、名前くらいしか知らなかったマックスウェル、そしてボルツマンに至って熱の分子運動論の白眉が展開される。このボルツマンの記述が本書のクライマックスであり、最大の注目どころのようなのだが、残念ながら物理劣等生のなれの果て、その前のマックスウェルあたりから数式の連発に打ち崩され(それでも「高校程度の数式」とのこと)、論理の展開についていくのがせいいっぱいで、ボルツマンのすごみを感じるところまでは至らなかった。私はまだ「朝永節」を味わうところまでは、まったく達していないようである。

 そのかわり、といってはなんだが、読んでいて印象に残ったところを少しだけ引用しておきたい。実は、本書のほとんどの部分は淡々と「物理学の先達」の業績を紹介するのみで、朝永氏自身が何かを言挙げしているところはあまりないのだが、時々、何かに押されるように、あるいは染み出すように、朝永氏自身の言葉がふっと入り込んでくる。そういうところを、少しピックアップしてみた。

「…このことから、すぐれた数学者必ずしもすぐれた物理学者とはいえない、ということが起こるのです。(略)数学化された理論の強みは疑いえないことであると同時に、その数学化をなしとげるのは数学の腕のほかにいろいろな修練が必要だということを忘れてはなりません。生きいきとした描像を見出すということもその一つです」(上巻P.225)

「このようにして、その存在は直接目に見えなくても、原子論に拠りどころを与える多くの実験事実の存在が知られるにつれ、原子論が思弁的であるという反対論のほうがかえって思弁の産物にすぎなかったことを自然自体が明らかにしてくれたのです。何が思弁的であり何がそうでないかを決めること自体、思弁だけによって行うことはできず、自然のなかにその拠りどころを求めねばならなかったのです」(下巻P.22)

「むしろ、熱学は、これらの計器の鈍感性を生かして、一つ一つの衝撃でなくそれの総和を、一つ一つの分子の運動エネルギーでなくそれの平均値を、一回の目盛り読みによって直接とらえているのです。すなわちこの鈍感さこそ熱学の関心事にふさわしいものなのです」(下巻P.86)

「…そう考えますと、自然を見る人間をそこに持ちこむことが物理学の客観性にそむくものだということはできないでしょう。むしろこの場所に人間を登場させ、そして熱学の立場で自然を見させてくれる可能性は力学法則のなかにちゃんと用意されていたと私は言いたいのです」(下巻P.128)

「だから物理学者にレッテル貼って、これはマッハ派だ、これはアンチ・マッハの派だという分類をすることは非常に危険だということですね。他人が分類するのならいいけれども、自分自身で自分を分類する人がときどきいますからね。だから『君子豹変す』というけれども、物理学者は大いに豹変するほうがいよい」(下巻P.148)

「私は、科学には非常に罰せられる要素があるんだということ、これは忘れてはいけないんじゃないかという感じがいたします。それと同時に、それじゃそういうものはまったくやめたほうがいいかと言いますと、そうもいかない。というのは、人間は火を使わないでほかの動物と競争ができないのと同様に、科学なしでは生きつづけることができないという矛盾した存在であるということです」(下巻P.189)

「すでに知ったしまった知識を物理学者はすっかり忘れてしまうことはできないわけです。ですからこれ以上新しいものが出てこなくても、すでに獲得した知識だけでも、さらにより巨大な兵器をつくる可能性は残っている…」(下巻P.219)