自治体職員の読書ノート

自治体で働くソーシャルワーカーが、読んだ本を紹介します。

【677〜679冊目】加島祥造『タオ』『肚 老子と私』『いまを生きる』

タオ―老子 (ちくま文庫)

タオ―老子 (ちくま文庫)

肚(はら)―老子と私

肚(はら)―老子と私

いまを生きる―六十歳からの自己発見

いまを生きる―六十歳からの自己発見

前に老子を読んだとき、一緒に読んだ加島祥造氏の『タオにつながる』がなかなか良かった。いわゆる老子の注釈書ではなく、加島氏が老子を読み、自分のものとして咀嚼した結果、老子のことばが実に自然なかたちで現代語によみがえっていた。老子の思想は、学問的に正確なかたちで理解するより、こうして自分なりに、自由に描きなおすほうがふさわしい。そう感じて、いつか加島氏のほかの著作も読もうと思っていたのだが、ずいぶん日が経ってしまった。

今回読もうと思ったのは、前に読んで感想を書いた『33歳からのルール』で、いかにも現代的で社会的な人生訓の連続射撃を浴びたため。それが悪いというわけじゃないし、内容はそこらのビジネス書と比べてもなかなか面白かったのだが、しかしそれだけじゃいかにも浅すぎるし、目先にとらわれ過ぎている。その反動で、老子に戻りたくなった。老子を現代に引きなおした、加島氏の言葉をもうちょっと読んでみたくなった。

『タオ』は加島氏による『老子道徳経』全81章の加島流意訳。語りかけるようなのびやかな日本語で、老子のものとも加島氏のものともいいがたい、渾然一体となった文章が並ぶ。『肚』は、まさしく日本人にとっての「肚=腹」の重要性を説きつつ、そこに老子を結びつけ、さらにそこに生命を生み出す女性原理をつなげていく。また、老子の思想が「柔らかさ」「弱さ」の思想であると説いているところも面白い。松岡正剛氏がよく言われる「フラジリティ」を思い出した(確か氏は、老子の思想を「柔弱の存在学」「反弱の国家論」と呼んでいた)。『いまを生きる』は自らの日々や考えを綴ったエッセイ。日常的な光景を綴るユーモラスな筆致は、加島氏の別の面を見た思いである。

そして、その『いまを生きる』の中に、実は「老子」とはまた別の(しかしどこか奥深いところでつながっている)驚きがあった。「求めぬ愛」というエッセイだ。このエッセイは、アメリカ人の友人から聞いた話として、次のように始まる。

「"Whoever find this I love you"(これを見つけた人を、誰でも、あたしは愛します) この句のなかの『あたし』は孤児院にいるひとりの少女であり、『これ』とは一枚の紙片です。孤児院にいるひとりの少女が、小さな紙片にこの言葉を書いて、それを窓から外へ投げていた。幾枚書きつづけたか、幾年つづいたのかは知らない。」

エッセイはこの後、こうした「無償の愛」の尊さを語り、それを語った友人にネタ元を尋ねるという展開になる。だが、友人もその出典は覚えていない。そして加島氏は、自身も「晩晴館通信」という文章を宛名をつけて送っている(実はそれが本書の元になっている)と語った後、「私のつづった文章はいずれも、伝播力では、宛て名人なしに書いた少女の一行の言葉に及ばない。はるかに及ばない」と書く。

なぜ及ばないのか。ひとつは少女の行為が「無私の訴え」であること。そしてもうひとつ、実はこちらが、私がこのエッセイで一番印象に残ったのだが、「世の中に何一つ持たない少女が、なお、他人の愛を求めるのではなくて、自分の愛を分けようとする。こういうことが、この世に起こりうるのだ」ということである。

これには参った。なぜって、私がこうやって書いているブログだって、ある意味「無私の訴え」には違いない。匿名で書いているんだし、なにひとつ自分の利益にはならないんだから。だが、「何一つ持たない少女が」「自分の愛を分けようとする」その行為の純粋さに比べると、わがブログはなんと汚れて、せせこましいことか。なんと自己顕示欲にまみれていることか。ああ、嫌になる。自己嫌悪。まあ、比べること自体がおこがましいような気もするが……。