白洲正子「私の百人一首」・田辺聖子「田辺聖子の小倉百人一首」・高橋睦郎「百人一首」(#634〜#636)
- 作者: 白洲正子
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2004/12/22
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- 作者: 田辺聖子
- 出版社/メーカー: 角川書店
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- 作者: 高橋睦郎
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2003/12
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百人一首から遠ざかって、ずいぶん経つ。
正月に従姉妹たちと遊んだのは、小学校の高学年くらいの頃だったかな。最初は単なるカルタ取りの一種だったのが、「句を覚える」と有利になることに気づき、がんばっていくつか覚えたところで、遊び自体がぱたりと止んだ。その後、確か高校生の頃に冬休みの宿題で「百人一首を全部覚える」というものが出たが、これも一夜漬けの弊害か、今じゃ全然覚えてない。
だから百人一首に関しては、私はまるっきり落第生なのだが、中には幼少の頃からこれに親しみ、百首すべてを覚えるなんて当然、その一首一首に格別の愛情と愛着をもっている方もたくさんおられる。白洲正子の「私の百人一首」、田辺聖子の「田辺聖子の小倉百人一首」は、いずれも深く深く百人一首に親しみ、その味わいを知り尽くした人による、まさに「私の百人一首」である。
どちらも一首ずつを取り上げて解説や感想を加えているのだが、作者や歌が詠まれた状況の解説はともかくとして、歌そのものに分け入っていくところに、やはりお二方ならではの繊細な感性と歌への愛着がにじみ出てくる。
両者の違いということでいえば、白洲正子版はやや淡々と、しかしご自身の好み、個々の歌に対する好き嫌いをはっきりと語っている。一方、田辺聖子版はかなり現代風でドラマチックな解説であり、「与太郎青年」「熊八中年」とのにぎやかなボケツッコミも交えて、現代人の感覚で個々の歌をとらえなおすものとなっている。
どちらが良いかは好みの問題であろうが、個人的には田辺版のにぎやかさよりも、白洲版のしっとりとした歌の味わい方に惹かれるものがある。あえて現代語訳を書いていないところも良い。現代語に置き換えたり解釈を加えすぎたりすると、かえって歌の本来の味わいから遠ざかってしまうと書かれているが、まさにそのとおりであろう。
一方、高橋睦郎の「百人一首」は新聞に週刊連載されたものだが、新書の見開き2ページに現代語訳と解説をコンパクトに収めている。こちらは幼少期から親しんできた歌を紹介するというよりは、あらためて一首一首と向き合い、解釈を加えなおしたものだという。そのためか、これまでの伝統的な解釈から大きく離れたものもいくつか見受けられ、なかなか楽しめた。
例えば、「ちはやふる神代もきかず龍田川」の「ちはやぶる」を単なる枕詞としてみるのではなく、「血はや降る」に掛けて平城上皇と薬子の怨念を読み込む。「さびしさに宿を立ちいでてながむればいづこもおなじ秋のゆふぐれ」を、いわゆる「三夕の歌」と比べ、後者が具体的な情景を詠っているのに対して前者は「抽象詩・思想詩」であると見る。西行の「なげけとて月やは物を思はするかこち顔なるわが涙かな」については、「西行にはもっと良い歌がたくさんあるのに〜」と言われることもある中で、この一首こそ「西行の生涯を象徴する一首」と喝破する、といった具合である。
しかし一番面白いのは、末尾の水原紫苑との対談で、百人一首の全体を「王朝への葬送曲」と捉えるくだり。確かにこの百首の並びは、大化の改新を経て古代王朝の礎を築いた天智天皇、持統天皇にはじまり、鎌倉幕府により隠岐に配流された後鳥羽院、順徳院で閉じるというもので、見事に王朝文化の萌芽から断末魔までを並びきっている。
そして、その中に万葉の歌人である人麻呂、赤人、伝説的な小野小町、行平・業平、菅家こと菅原道真、古今集を編んだ紀貫之や平安王朝の和歌全盛時代を支えた名歌人たち(とりわけ和泉式部、紫式部、清少納言ら宮廷文学のスーパースター)、西行や慈円ら「歌詠む僧たち」、そして編者である定家自らも含めて、王朝のみやびを彩った大立者がことごとくパッケージされているのだ。言われてみればこの構造は、確かに定家による、滅びゆく王朝へのレクイエムであったとしか思えない。それにしても、ただひたすら短歌を並べるだけの作業にそのようなメッセージが込められるのだとしたら、定家という人はとんでもない人物である。すごい。
それにしても、この3冊は読むのにずいぶん時間がかかった。一首ごとにまず三十一文字を口ずさみ、イメージが湧きあがってくるのを待つ。それからやおら、白洲正子や田辺聖子、高橋睦郎がどんなふうにこの一首を語っているか、を照らし合わせるように読んだためである。これを三百回繰り返した計算になる。おかげでブログの更新には間が空いてしまったが、こういうリズムの読み方もたまには良いもんである。
こうして読むと、おのずと「好きな歌」というのが決まってくるものだ。私の場合、技巧や理知に頼るよりも、すらりと読み下せて味わいが深いものが心に響くようである。たとえば、次のような歌はどうですか。
ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらん(紀友則)
…のどかな前半に対して「心なく」「花が散る」の不吉さのコントラスト
あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびのあふこともがな(和泉式部)
…「あらざらむこの世のほか」という言い方が絶妙
今はただ思ひ絶えなむとばかりを人づてならでいふよしもがな(左京大夫道雅)
…恋が終わる瞬間の、心がちぎられるような哀しみ
秋風にたなびく雲の絶間よりもれいづる月の影のさやけさ(左京大夫顕輔)
…シンプルだけど、美しい。「影」は「光」のことです。
ながらへばまたこの頃やしのばれむ憂しと見し世ぞいまは恋しき(藤原清輔朝臣)
…人生の真理。自己啓発書などに出てきそうな言葉です。
玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする(式子内親王)
…これもまた、「忍ぶ恋」のつらさに心が痛みます。