自治体職員の読書ノート

自治体で働くソーシャルワーカーが、読んだ本を紹介します。

澁澤龍彦「異端の肖像」「胡桃の中の世界」「エピクロスの肋骨」(#628〜#630)

異端の肖像 (河出文庫)

異端の肖像 (河出文庫)

胡桃の中の世界 (河出文庫)

胡桃の中の世界 (河出文庫)

エピクロスの肋骨

エピクロスの肋骨

澁澤龍彦を読んだのは今回がはじめて。マルキ・ド・サドの翻訳紹介をはじめ「そっち系」の著作が多く、うすうす興味はありながらもなんとなく「敬して遠ざけ」たまま今日まできてしまった。なんだかすごくアブない人のようなイメージがあった。

「異端の肖像」は、まさに期待にたがわぬアブノーマルぶりであった。狂王ルードヴィヒ2世、ロシアの魔術師ゲオルギー・グルジエフ、プルーストが描いた男色家シゃルリュス男爵のモデルといわれるロベール・ド・モンテスキウ、孤独の中で異様な性的思考と建築に耽ったウィリアム・ベックフォード、史上最悪の幼児殺戮者ジル・ド・レエ、フランス革命の渦中に生きた革命家サン・ジュスト、退廃の極みを尽くしたローマの少年皇帝ヘリオガバルス

いずれも己の欲望と信念を異様なかたちにねじくれさせ、多くはそれを(身分的特権やおのれの魅力によって)法外なまでに満たし、結果として人間の幅を超えたモンスター的存在として後世にその名を残すこととなった人々である(グルジエフとサン・ジュストはやや例外に属する)。そのありようを描く著者の文章は、意外なほど冷静で、抑制されている。目をそむけたくなるようなグロテスクな場面や性的退廃の極致は、あおるように書こうと思えばいくらでも書けるところなのだろうが、そうした趣味はこの著者のとるところではないようだ。むしろその裏面に見られる彼らのエレガンスや美意識、あるいは孤独や虚無が、かなり丁寧に書かれている。そのため、異形の怪物のように見られがちな彼らが、ここでは(通常人から大きく逸脱した存在であることは認めなければならないが)かなりリアルな「人間」として彫琢されている。もっともそのことは、「ふつうの人間」と本書で取り上げられた人々の間には想像以上に低い垣根しかないということでもある。事実、たとえばルードヴィヒ2世やベックフォード、ヘリオガバルスのような有り余る財力、権力、時間を与えられた場合、いったい何人がおのれの暗い欲望を満たそうとせずに済ませられるだろうか。

「胡桃の中の世界」は一転して博物学的なエッセイ集。そのテーマが面白い。絵のようなものが浮かんでいる石や「プラトン立体」、螺旋や卵をめぐるイメージの奔流、紋章や怪物、動物をめぐる考察を通じて、現実のすぐ裏側に広がっている幻想の世界を描き出そうとする。そこに展開されているイメージの世界は、現代のわれわれからみると滑稽にさえ思えるが、しかしそうしたオブジェの中に、昔の人々は大真面目に世界を見、この世の真理の一端を見ていたのである。特にハッとさせられたのは「ユートピアとしての時計」という章。著者はまず、歯車を組み合わせた機械式時計がいつ頃生まれたのかよくわかっていないという点を指摘する。その上で、この(現代もわれわれが使っている、文字盤を針がめぐる時計は)それまで円環的に流れていた「時間の意識」を直線的な流れに変え、神々と自然のものであった時間を人間のものとして管理可能にしてしまったというのである。その結果、「抽象的な時間が勝利して、具体的な時間が死んでしま」った。この、時計の誕生によって人間の意識がどう変わったか、という問いかけは、案外重要なものを含んでいるように思える。

エピクロスの肋骨」は小説集。「撲滅の賦」「エピクロスの肋骨」「錬金術的コント」の3篇をおさめる。印象的だったのは、著者初めての小説という「撲滅の賦」。金魚や金魚鉢、あるいは世界樹イグドラシルといった断片的なイメージが反射光のように行き交い、独特の即物的で、同時に幻想的な世界を生み出している。細部が光り、時には全体を凌駕する。そういった「細部への視点」は、著者の他の作品にも生きているように思う。