自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

ヴィルヘルム・フルトヴェングラー「音と言葉」「音楽ノート」「フルトヴェングラーの手記」(#625〜#627)

音と言葉 (新潮文庫)

音と言葉 (新潮文庫)

フルトヴェングラー 音楽ノート

フルトヴェングラー 音楽ノート

フルトヴェングラーの手記

フルトヴェングラーの手記

クラシック音楽は好きでけっこうよく聴く。オーケストラ曲が多いのだが、同じ曲でもオーケストラや指揮者が違うと全然違って聴こえるから不思議である。とりわけ、このフルトヴェングラーは、文字通り「別格」。現代にも名指揮者といわれる人は多いが、フルトヴェングラーとは世界が違う。

指揮のしかたは独特で、よくこれでオケが合わせられると思えるほど、打点が読みづらい。否、むしろ明確な打点、明白な「拍」によって音楽が固定され、硬くなってしまうことを、フルトヴェングラーはあえて避けているのだ。自ら解説しているとおり、不明確な指揮であるがゆえに精密な、音楽の流れを損なわない演奏が実現するのである。「およそ音に働きかける可能性は拍子それ自体のうちにではなく、もっぱら拍子の準備のうちに宿されている」とフルトヴェングラーは言い切る。

同じように、数多くのリハーサルを行うことについてもフルトヴェングラーは否定的だ。それによって音楽が機械的になり、固定されたものになってしまうからである。「指揮者が解釈の性質、オーケストラの演奏方法などに働きかける可能性は、それが試演においてではなく瞬間を通して発現するものであるかぎり、すべて拍子の準備状態のうちに宿されている」という。

思うに、瞬間性や一回性、再現不可能性こそが音楽の本質であり、それを最大限に活かす方法こそがフルトヴェングラーの方法論なのである。ジャズのインプロヴィゼーションを彷彿とさせるものがある。だが、クラシック音楽の場合、相手は「譜面」という決まったモノである。とすると、過去の作曲家がつくった、動かしがたい枠組みの中で、どうやって「音楽の一期一会」を実現するというのだろうか。

フルトヴェングラーは、音楽そのものに徹底して向き合うことを強調する。よくありがちな、「その曲が書かれた歴史的背景を考慮する」というような考え方は、彼の採るところではない(曲が書かれた当時の楽器を使うやり方や、作曲当時のスタイルで演奏するピリオドスタイルを好む指揮者も多いが、おそらくフルトヴェングラーはこうしたやり方を好まないだろう)。

また、「譜面に忠実に演奏する」という方法も、それによって音楽そのものに向き合うことを避け、固定的な枠組みに閉じ込められてしまう点でよろしくない(念頭に置かれているのはトスカニーニあたりであろうか)。もっとも重要なのは、純粋に音楽そのものに相対すること、なのである。

フルトヴェングラーの文章を読んでいると、まさしく彼こそは「音楽の権化」であるように思える。すべての内容は音楽に向かっており、すべての主張は音楽のためにある。なるほど、これほど徹頭徹尾音楽に向かい合った精神があるなら、あのような桁外れの、こちらの魂が震えるような演奏をオーケストラから引き出すことができるはずである。特にベートーヴェンブラームスといったドイツ音楽については、フルトヴェングラーの演奏はまさしく神のごとく君臨しており、いまもって他の指揮者をまったく寄せ付けない水準にある、と思う。

なお、フルトヴェングラーというとナチズムへの協力が非難され、戦後にはアメリカへの演奏旅行に対して抗議運動が起きたこともあるが(youtubeには、ハーケンクロイツの下でワーグナーの「マイスタージンガー」を演奏している動画がある)、こうしたスキャンダラスな面については、3冊を通じてほとんど言及がない(「手記」にはわずかながらみられる)。フルトヴェングラーの言葉は、徹底して音楽にのみ向かっている。

なお、フルトヴェングラーナチス政権下のドイツで指揮者として力をもっていたことは事実であるが、彼はその立場をうまく使って、知人のユダヤ人を救済するなどしていたことが今ではわかっている(フルトヴェングラーナチス政権下での立場はかなり強いものだったらしい)。彼は、ドイツを去るよりも、むしろドイツにとどまって圧政下のドイツの民衆に音楽を届けることを願っていたように思われる。なんにせよ、政治的にいかなる立場であったとしても、フルトヴェングラーの音楽の価値そのものはいささかも揺らぐものではないのである。