自治体職員の読書ノート

自治体で働くソーシャルワーカーが、読んだ本を紹介します。

イタロ・カルヴィーノ「くもの巣の小道」「レ・コスミコミケ」「冬の夜ひとりの旅人が」(#616〜#618)

くもの巣の小道―パルチザンあるいは落伍者たちをめぐる寓話 (ちくま文庫)

くもの巣の小道―パルチザンあるいは落伍者たちをめぐる寓話 (ちくま文庫)

冬の夜ひとりの旅人が (ちくま文庫)

冬の夜ひとりの旅人が (ちくま文庫)

この3冊を通して何か書こうとして、途方に暮れている。一人の作家の手による作品とは思えないほど、この3つの小説はそれぞれに全然違っているのだ。前に読んだ「宿命の交わる城」も含め、どれひとつとして同じではない。一作一作が、全然別の姿をとってあらわれている。

強いて言うなら、この多様さ、多元的で重なり合うことのない小説世界自体がカルヴィーノの本領であって、変幻自在で姿定まらぬありようこそが、カルヴィーノという作家の個性であるのかもしれない。

だが、それでいてどの作品も、あきらかに「カルヴィーノの小説」なのである。どこかひょうひょうとした視点も、自在に宙を飛ぶようなレトリックの数々も、作者の視点が偏在しているような小説世界も。これはいったい、何なのだろうか。カルヴィーノとは何者なのだろうか。

「くもの巣の小道」はカルヴィーノの出発点となった作品であり、カルヴィーノ自身のパルチザン体験が強く反映している、らしい。だが、いわゆる抵抗文学のようなものとは全然違っている。そこは酒好きで女好きのろくでなしのふきだまりで、半端者の集まりのようなところである。

そして、その中で行動を共にする少年ピン。このピンがなんとも痛々しく、哀しい存在なのである。売春婦の姉をもち、いつも親方に殴られ、同世代の子供たちの間に居場所がなく、いつも酒場で大人たちの間に交じっては、毒舌や下ネタでウケを取ったり、歌を歌ったりする(この歌が実はものすごく上手いのだが・・・)。

いわば、ピンは「子供になれないでいる子供」なのである。年相応の子供でいられないから、ピンは大人の真似をせざるを得ない。しかし、大人にもなりきれないピンは、結局パルチザンの中にも居場所を見いだせない。ピンが子供に戻れる場所は、土の中に巣をつくる蜘蛛が巣を並べている秘密の小道だけなのだ。

この小説は「ネオ・リアリスム小説の傑作」と称されるという。しかし、個人的にはこれは、むしろ「裏返しの児童文学」「子供になれない子供たちのための文学」であるように感じた。

一転、「レ・コスミコミケ」は奇妙でSFチックな連作短編集。ここでは語り手が登場するのだが、その名はQwfwqという。読めないのである。しかもその正体は、宇宙開闢以来、さまざまな姿かたちをとりながらこの世に存在し続ける老人。彼が語る宇宙と地球の歴史は、とてもファンタジックでキュートなのだ。

月が「はしごで昇れるほど」近くにあった頃の話を語る「月の距離」、太陽系の生成過程をコミカルに語る「昼の誕生」など、とにかくユーモア満載の絶品。特に印象に残ったのは、「光と年月」のこんな書き出しであった。

ある夜、わしはいつものとおり天体望遠鏡で観測を続けておった。すると、一億光年の距離にある星雲から一本のプラカードが突き出ているのに気がついた。それには「見タゾ!」と書いてあった。わしは急いで計算をした。その星雲は一億年かかってわしの目に届いたのであり、またむこうではここで起きたことを一億年も遅れて見たわけなのだから、彼らがわしを見たというその瞬間は二億年以前のことでなければならないわけだった。


そして、「冬の夜ひとりの旅人が」である。この小説は、なんと「あなた」が「イタロ・カルヴィーノの新しい小説『冬の夜ひとりの旅人が』を読み始めようとしている」ところから始まるのだ! そして、「あなた」こと男性読者と、理想的な読者である女性読者が登場し、次々と新しい小説に出会っていく。小説内小説なのである。しかも、その小説はすべて話の途中で断ち切られ、そのたびに「読者」は続きを探し求めざるを得ない。

いわば小説の中に小説が入れ子状になっているのだ。しかもそのうえ、「サイラス・フラナリー」という無気力な作家が登場して「書くこと」と「読むこと」についての洞察を展開する。その論議は、そのままこの小説全体に覆いかぶさってくるものである。また、ラスト近く、図書館で交わされる読書論のなんとユニークで濃密なことか。

いわばこの小説は、小説そのものの構造を通じ、さらに登場人物の言葉を通じて、「読むこととは何か」「書くこととは何か」「本とは何か」という問いを投げかけてくるのだ。読みながら読んでいる自分が映され、読書という行為自体についていろいろ考えさせられる。小説が裏側からぐるりと裏返しになり、外側で読んでいるはずの自分がいつの間にかカルヴィーノの魔法にかかり、小説の内側から外を(あるいはさらに内側を)眺めているのである。

魔法のような小説。内は外、裏は表。カルヴィーノ・マジック、もっともっと楽しみたい。