自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【581冊目】苅谷剛彦「学校って何だろう」【582冊目】苅谷剛彦「教育の世紀」【583冊目】苅谷剛彦・増田ユリヤ「欲ばり過ぎるニッポンの教育」

学校って何だろう―教育の社会学入門 (ちくま文庫)

学校って何だろう―教育の社会学入門 (ちくま文庫)

教育の世紀―学び、教える思想 (シリーズ生きる思想)

教育の世紀―学び、教える思想 (シリーズ生きる思想)

欲ばり過ぎるニッポンの教育 (講談社現代新書)

欲ばり過ぎるニッポンの教育 (講談社現代新書)

うーん、今回は選書をちょっとミスったかもしれない。

苅谷剛彦氏の教育論を読みたかったのだが、一番知りたかった、日本の社会や教育をめぐる論考をストレートに扱った本を選び損ねてしまった。「階層化日本の教育危機」や「大衆教育社会のゆくえ」、「教育改革の幻想」などを選ぶべきだったか。

だが、この3冊−苅谷教育論の中ではひょっとしたら辺縁に位置するかもしれない−を読めたことで、収穫もあった。教育をめぐる視点がこれほど多様にありうるということを、なんとなく感じられたことである。その内容を書くには、この3冊の概要を少し書いておかなければならない。

1冊目の「学校って何だろう」は、中学生に対して語りかけるように書かれた1冊。フリではなく、本当に「毎日中学生新聞」に連載された記事の書籍化である。やさしい言葉で書かれているが、内容はけっこう深遠。学校の中、教室の自席からしか学校を見ることがないと思われる中学生に対して、先生とは何か、テストとは何か、さらには社会全体、あるいは世界全体の中で日本の中学生はどのような立ち位置を占めているか、といったテーマを次々にぶつけていく。

そのため、生徒としての視点だけではなく、多様な視点から学校というものを眺められるしくみになっている。そして、重要なのは、論点は提示するものの、著者が決して「答え」を与えないこと。むしろ、こうした学校をめぐる論点とは決まった答えがない問題であることを、繰り返し書いている。この、「多様な視点で自分の立ち位置を眺める」「一つの答え(正解)がない問題がある」ということ自体が、中学生に対する大きなメッセージとなっている。

2冊目は、ややアカデミックな内容。アメリカの社会学者で、スペンサーらのいわゆる社会ダーウィニズムに抗してアメリカ公教育の出発点を示したウォードという学者を取り上げる。そして、「機会の平等」に由来する画一的教育を経て、「個性化・個別化」と「画一性・平等性」の矛盾を通して、アメリカ公教育の歴史と現状を解説している。そして、その視点はそのまま、アメリカの公教育制度をモデルとして出発した戦後日本の公教育に引き継がれる。

おそらく、このウォードにはじまり発展してきたアメリカ公教育論が、著者の理論のひとつの礎となっていると思われる。また、アメリカにおける議論の抜き差しならない状況を知っているからこそ、日本の公教育論がいかにも上滑りで軽薄なものに見えている、ということもわかる。この視点はおそらく、他著において日本の教育改革論議を眺める著者の視点を基礎づけているのではなかろうか。

3冊目は対談であるが、日本の公教育論をめぐるホットな議論を扱っているという点で、もっとも「読みたかった種類」の本であった。総合学習や英語学習など、次々と新たな課題を突きつけられる学校現場とは何なのか、進路指導もカウンセリングも非行も不登校も何もかも学校に押し付けてきてしまったわれわれの社会とはいったい何なのか、考えさせられる点は多い。

特に、総合学習をめぐる比喩がうまかった。それは、それまで決まったマニュアルに沿ってハンバーガーを作っていればよかったマクドナルドの店員が、突然「明日からお客様のオーダーに沿ったフレンチのコースを用意しなさい」といわれ、いわば一夜にしてフレンチのシェフにさせられてしまったようなものだというのである。もっとも、学校現場ではこれまでも総合学習的な要素を2割ほど含んでいたのであり、完全なマニュアル主義ではなかった、との補足はあるが、それにしてもわかりやすい。

さて、こうして3冊を見てくると、学者としての知見も申し分ないが、苅谷氏のもっともすばらしい点は、「常識人」であるということだと感じる。いやいや、バカにしているわけではなく、ともすれば抽象的でものすごく偏った「理論闘争」に陥りやすい教育論において、高度な「学識」とバランスのとれた「常識」を高いレベルで両立させ、きわめてまっとうな教育論を展開しているところが凄いのだ。入り口を間違えると大変なことになりやすい教育論の世界で、このような論客が第一線で活躍されていることは、私のような初学者にとってたいへんな幸運である。