小川洋子【549冊目】「博士の愛した数式」【550冊目】「ミーナの行進」【551冊目】「アンネ・フランクの記憶」
- 作者: 小川洋子
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- 作者: 小川洋子,寺田順三
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- 作者: 小川洋子
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最初に読んだ小川洋子の小説は、「博士の愛した数式」であった。本屋大賞を受賞してすぐの頃だったと思うが、あまりの出来の良さに驚いた記憶がある。その味わいをもう一度味わいたくて小川洋子の小説をいくつか読んだが、「数式」に及ぶものはなかった。今回は再読だったが、やはりこのクオリティはずば抜けている。そこには小説家としての技量や才能といったものを超えた、ある種の奇跡がはたらいたかのようである。
何と言っても、博士の記憶が80分しか保たれないという設定が絶妙である。しかも、考えてみれば実に「憎い」設定であるにもかかわらず、実に自然に小説の中に溶け込んでおり、違和感を感じさせない。その博士が数学に関しては飛び抜けた能力をもっているというところもうまい。そして、数学の扱い方が面白い。数学が出てくる小説はいくつかあるが、数式にこれほどチャーミングでエモーショナルな色づけをした作品は他に知らない。本書の主役はひょっとしたら「博士」でも「わたし」でも「ルート」でもなく、数式なのかもしれない。
一方、「ミーナの行進」は今回が初読。「数式」と続けて読んだが、やはり小説の出来は「数式」のほうが上だと思う。しかし、「行進」のほうもなかなか面白い。考えてみればこれといった事件が起こるわけでもないのだが、ミーナやその家族の描き方が絶妙にうまく、ついつい惹き込まれてしまう。特に印象的だったのは、家の庭で飼われているカバのポチ子。このポチ子に乗って、ミーナは小学校へ通うのである。また、ミーナがマッチ箱を集め、マッチ箱の絵柄をもとに物語をつくっている、というくだりも素晴らしい。この物語が作中に挿入されているのだが、一篇の童話としてそのまま出版できそうな気がする。
それにしてもこの2冊に限らず小川洋子の小説を読んでいると、心の中がしんと静まりかえってしまう。実に「静かな」小説なのである。何と言うか、言葉が決して波立たないのだ。どんなにコミカルな場面、あるいはシリアスな場面でも、小説は一見、実に淡々と進んでいく。心理描写も情景描写も、多彩な比喩と的確な形容できちんと描かれているのだが、浮足立った、あるいは熱を帯びたものがほとんど感じられない。何枚もの静止画をつなげるように、小説は静かに静かに進むのである。
しかし、その静けさには不思議な緊張感があって、それが最後まで決して途切れない。それは薄い薄いガラスのような緊張感で、何かの拍子にそれが割れてしまうと、平穏な生活がとたんに破壊されてしまうような類のものである。とりわけ、お互いが満ち足りて幸福な状態でいる(たとえば「数式」で博士と「わたし」とルートがたわいない会話を交わしながら料理をしていたり、「行進」でとびきり豪華なクリスマスパーティの準備をしていたり)時にこそ、その幸福な瞬間が束の間のものであり、そのすぐ裏側にはとんでもないカタストロフが待ち受けていることが予感される。そういう予感を、不吉で暗示的な言葉をいっさい使わずに抱かせるなにかが、小川洋子の小説にはあるような気がする。
それが何なのかはよくわからない。わからないが、その一つのヒントとなるかもしれないものが、3冊目に挙げた「アンネ・フランクの記憶」である。これは少女時代から「アンネの日記」を愛読してきた著者が、実際にアンネが隠れて暮らしたオランダの家や、フランクフルトにある生家、さらにはアンネたちが連行されたアウシュビッツやビルケナウを訪れ、当時のアンネを知る人や強制収容所の生還者たちに話を聞いたものである。読んで印象に残ったのは、著者のアンネに対する思い、アンネの日記に対する愛着の深さ。アンネの日記は「ナチス・ドイツの犠牲者」のシンボル的存在として扱われることが多いが、そうした視点も残しつつ、著者は、アンネがひとりの少女であったことから決して視線をそらさない。アンネの足跡を追う本書も、あくまでひとりの少女アンネの体験を追うというスタンスである。それはまた、アンネの日記をこよなく愛した少女・小川洋子が、自らの原体験をたどる旅であったのかもしれない。その原体験、本棚の後ろの隠し部屋にひそんでいるとはいえ、家族に囲まれた平穏な生活を送っていたアンネの日記が突然断ち切られるように終わっているという、いわばアンネのカタストロフが、その後の小川洋子の小説のひとつのモチーフになり、あるいはその行間に残響していると考えるのは、安直な推測だろうか。
☆これまで読んだ小川洋子の本
【234冊目】小川洋子「密やかな結晶」
【424冊目】小川洋子「寡黙な死骸 みだらな弔い」